覚え書:「今週の本棚:本村凌二・評 『師弟のまじわり』=ジョージ・スタイナー」、『毎日新聞』2012年07月01日(日)付。




        • -

今週の本棚:本村凌二・評 『師弟のまじわり』=ジョージ・スタイナー著
 (岩波書店・3150円)

 ◇肉声ともなう教育の場の重みを噛みしめる
 二十世紀の哲学者を一人だけあげなさい、と問われたら、多くの識者はM・ハイデガーと答えるのではないだろうか。そのハイデガーが「あなたは誰の本を一番お読みになりますか」と尋ねられたとき、すかさず「マルティン・ハイデガー」と答えたそうだ。
 誰であれ自分が考えて書き記したことでも年月を経れば筋道が曖昧(あいまい)になる。だから、自分自身の考えにも復習は欠かせない、と評者は思っていた。ところが、本書をひもとけば、それは凡庸の徒の見方にすぎない、と思い知らされる。
 周知のように、ハイデガーの師は現象学創始者フッサールであり、師はフライブルク大学定年退職にあたって自分の後任にこの弟子を希望するほどだった。ところが、時とともに、師弟の亀裂は深まり、弟子は師を痛烈に非難するようになる。おりしもナチの運動に共鳴するハイデガーフライブルク大学の総長に就任したが、公職追放の憂き目に遭うユダヤ系のフッサールは死に等しい孤独を耐えなければならなかった。少なくとも、弟子は師の苦境を和らげるための行動を、一切とらなかったという。この裏切りは「私の存在の根本を突き崩した」と師が述懐するほどだから、「心」の歴史のなかでも最も哀れをさそう、と著者は指摘する。
 ジョン・レノンにはいみじくも「子どものころは、あらゆることが正しかった」の言葉がある。それにならえば、教育とは、間違ったこと、無知だったことを認めていく道程にほかならない。だから、師はいつも正しく何事も知っていなければならない。ここに師弟関係の不幸がある。師フッサールの不幸は、弟子ハイデガーがいつまでも子どものままでいたことにあるのではないだろうか。これは皮肉すぎる私見かもしれないが。
 現代の高等教育制度では、大学の教授になるには、博士論文をはじめとして重厚な書類業績が求められる。だから、「よい教師だが、業績がなかった」というのは、ナザレのイエスであれば専任の教授になれなかっただろうという大学での冗談であるらしい。そういえば、ソクラテスも書きものを一切残していない。それどころか、文字を使うことにすら批判的であったから、教授どころか講師にもなれなかっただろう。大哲人にとって、書き記す行為は人間の思考力と記憶力を減退させる営みにすぎなかったのだ。
 ソクラテスとイエスの事例は永遠に示唆するところがある。それは師弟関係にはなによりも肉声がともなうということではないだろうか。書物を通せば、言葉をめぐって腰をすえて正確に考えることならできる。だが、書き手の心にひそむ肌の温(ぬく)もりも刃物の鋭さもなかなか伝わってこない。読書するだけなら、知識と情報を得ることしかなくなってしまう。
 この春、教壇を降りた評者にとって、この数年の講義は苦行にも等しいものだった。それはなによりも冗談が通じなくなってきたことにある。お互いの常識が違いすぎるのだ。だが、本書を読んで、反省させられたこともある。私の常識を学生に求めるなら、私も学生の常識を知る必要があったということである。人気沸騰のM・サンデル教授の爪のあかでも煎(せん)じて、レディー・ガガの話でもすればよかったのかもしれない。
 ともあれ、原題の「先生(マスター)の教訓(レッスン)」ではなく「師弟のまじわり」という表題から、いかにも、訳者の教育への熱意が伝わってくる。教育という現場が人生にとっていかに重要であるか、そのことをあらためて噛(か)みしめながら、読後に香り高く得した気分になれる。(高田康成訳)
    −−「今週の本棚:本村凌二・評 『師弟のまじわり』=ジョージ・スタイナー」、『毎日新聞』2012年07月01日(日)付。

        • -






http://mainichi.jp/feature/news/20120701ddm015070015000c.html




202


203




師弟のまじわり
師弟のまじわり
posted with amazlet at 12.07.05
ジョージ・スタイナー
岩波書店
売り上げランキング: 100955


The Charles Eliot Norton Lectures, Lessons of the Masters
George Steiner
Harvard University Press
売り上げランキング: 25857