覚え書:「今週の本棚:三浦雅士・評 『荒凡夫 一茶』=金子兜太・著」、『毎日新聞』2012年07月15日(日)付。



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今週の本棚:三浦雅士・評 『荒凡夫 一茶』=金子兜太・著
 (白水社・2100円)

 ◇生涯、若々しく色っぽく過ごす秘訣を伝授
 俳人金子兜太。大正八年(一九一九年)生まれ。九十二歳だが、躍動する文章は若々しく色っぽい。それもそのはず、小林一茶の人と作品を語りながら、生涯、若々しく色っぽく過ごすにはどうすればいいか、その秘訣(ひけつ)を伝授するというのが、本書の真の趣旨なのだ。むろん、軸には一茶の、そして著者自身の俳句がある。俳句はしかしそのまま人生観すなわち死生観。一茶の紹介が、「荒凡夫(あらぼんぷ)」という生き方の推奨になっている。
 一茶はゲーテの十四歳年下、ワーズワースの七歳年上。近世というよりは近代人、いわば我らの同時代人。六十歳を迎えた一八二二年、「まん六の春と成りけり門の雪」の添え書きに、愚かな荒凡夫として一生を終えたいむね記している。荒は荒々しいという意味ではない、自由という意味だ、荒凡夫とは「自由で平凡な男」という意味なのだと著者は力説する。
 自由とは本能のままに生きること、自分の欲に忠実であること。だが、社会に生きる以上、何らかの抑制が必要になる。その抑制を法律や道徳ではなく、心で行なうこと、それは「生きもの感覚」を養うこと、それこそ「自由で平凡な男」として生きる方法なのだ。万物は生命あって流転する。自分もまたそのなかにあることをしっかりと認識することこそ、美という抑制を見出(みいだ)す秘訣なのだ。本能は愚かな側面を見せもすれば美しい側面を見せもする。欲と美の両方が絡み合ってこそ魅力ある人間が生まれるのだ、と。
 戦中戦後を生きた自身の体験を通して語られるから説得力がある。体験といっても、どんなふうにして煙草(たばこ)を止(や)めたか、歯の治療を終えたかなど、些細(ささい)な体験のみ。この諧謔(かいぎゃく)が深い。切実が滑稽(こっけい)に転じ、滑稽が切実に転じる。とりわけ荒凡夫・種田山頭火をめぐる語りは見事。無を理想とすれば無に縛られる。その果てに空が見出されなければならない。危うい均衡に達しえたか、達しえなかったか。山頭火の、俗の極みの生き方が納得される。
 だが、それにもまして説得力があるのが一茶その人の生き方であり、対比して描き出される芭蕉の生き方である。万葉以来、「こころ」には「心」と「情」の二つの書き方がある。「心」は「ひとりごころ」すなわち自分に向ってゆくこころ、「情」は「ふたりごころ」すなわち相手に向って開いてゆくこころのことだ、と著者は説く。芭蕉が「情(こころ)」という字をさかんに用いた理由はここにある、と。だからこそ、俗にして艶というほかない『奥の細道』以降の作品も描き出された。たとえば「海に降(ふる)雨や恋しき浮身宿」「一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月」。芭蕉は自己幻想以上に対幻想に鋭敏だったのであり、ここに連歌連句の必然もあったというのだ。管見では芭蕉論の白眉。
 だが、その結果有名になった芭蕉は大衆を相手にする必然から「かるみ」を標榜(ひょうぼう)するにいたる。芭蕉の「かるみ」はしたがって技巧論にすぎない。思想としての「かるみ」は一茶にこそある。季語に捉われることなく人情に執着し、オノマトぺを自由に使いこなした一茶、荒凡夫に徹した一茶のほうが、「かるみ」において芭蕉を超えているというのだ。批判がかえって芭蕉の悲哀を浮き彫りにし、擁護もまた一茶の悲哀を浮き彫りにする。美しさはその悲哀の池に浮かぶ蓮の花なのだ。
 著者にはすでに全四巻の『金子兜太集』(筑摩書房)があるが、本書にはこれまでの著作すべてを圧縮して絞り出した濃縮ジュースの趣がある。
 美味である。
    −−「今週の本棚:三浦雅士・評 『荒凡夫 一茶』=金子兜太・著」、『毎日新聞』2012年07月15日(日)付。

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