人間はいつの時代からか、「性」には羞恥を感ずるが、「殺人」には羞恥を感じないような精神構造を持つようになったようだ


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 小説や新聞、雑誌においては、刑法上極刑である殺人行為を扱っても犯罪とはならずに、犯罪行為でない「性」を扱ったものは犯罪となる、という奇妙な錯綜が常識として痛痒している。芸術や研究の対象としての殺人は容認されるが、「性」は否定される。これはなぜか。破滅的かつ非建設的行為である犯罪行為が許容されて、平和的、建設的行為である「性」がなぜ否定されるのか。いくつかの理由が考えられるが、これを政治的に解釈すればいたって簡単である。競争を根幹とする日本のような社会にあっては、他人を打ち負かす闘争心こそが社会を発展させる原動力であり、平和を希求する友好的人間は、社会や国家を発展させる力たり得ないからである。戦争が肯定され、大量殺人者の軍人が英雄として崇拝される社会において「性」が否定される最大の理由はそこにある、と外骨は考えている。人間はいつの時代からか、「性」には羞恥を感ずるが、「殺人」には羞恥を感じないような精神構造を持つようになったようだ。
    −−吉野孝雄宮武外骨伝』河出文庫、2012年、263−264頁。

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 性を管理することはトータルとしての「生」を管理すること。その動態を暴いたフーコーは有名でしょうが、フーコーを待つまでもない。

「性」を「ことさら」なものとして持ち上げる議論には、何かの意図が見え隠れする……反骨の操觚者・宮武外骨もそう喝破した。

だから、日本において二つのタブーといわれる「天皇制」と「性」の問題に果敢に挑戦して、官憲の取締りとなっている。もちろん、外骨にしてみれば、「御用」になることこそ、「してやったり」という訳ですけれども。

しかし、「性」を管理することは、積極的には「国民国家」の兵隊を「増産」させゆく議論へと収斂されていくわけですが、そのもうひとつの側面は、「『性』には羞恥を感ずるが、『殺人』には羞恥を感じないような精神構造を持つよう」にさせていくということ。

ここを失念すると、まずいわな、と思う次第です。

ひとそれぞれに「羞恥」はある。しかし、権力はそれとなくそのコードを仕込んでいく。ここにどれだけ自覚的であることができるのか。

観ない自由は存在する。
観る自由も存在する。

しかし、そこに権力のまなざしがはいってくる、そしてしらないうちにそこに馴化され「おい、それおかしいぜ」ってなっちまうのがいちばん、野蛮なことがらなのだと思いますよ。








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