朝のこの上なく明るい眼差しで、輝いている優しい若者よ
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朝のこの上なく明るい眼差しで、輝いている優しい若者よ
そのためにこそ出発せよ若者たちよ
あなたたちの年齢にふさわしい情熱を燃やして
出発せよ強く雄々しくこんなにも美しい戦いのために。
二つの偉大な美徳、『忍耐』と『勇気』とによって、
すべてのものの勝利者に死への勝利者にさえなりたまえ。
−−シモーヌ・ヴェーユ(小海永二訳)『シモーヌ ヴェイユ詩集』青土社、1992年。
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さて、金曜日の授業で15回半期の哲学の講座が無事終了。
手前味噌で恐縮ですが、昨年はやはり震災があり、自分自身としても「いかがなものか」って意識がつよくあり、かなり先鋭的な構成にてくみたて、「おお、まれにみる“哲学”したなー」っていう自負があったのですが、今回は、しかしそれをふまえた展開として、全体のなかで「自分で考える」という点をもう一度ブラッシュアップしながら、構成しなおしてつくったのですが、おもいのほかに反響が鋭く、「ほぉー」って感です。
※って「天狗」になる訳じゃないですよ、いちおー。天狗は「飲むところ」ですから(ぇ
さて、もどりましょう。
女子短大での教養科目としての「哲学」にすぎませんが、「……にすぎない」以前以後でもなく、真剣に学生と今季も向き合うことができたと思います。
ヴェイユの言葉をたよりに、哲学をどう生活者として生かしていくのか、それを最終講義でお話をするわけですが、結局のところ、カントの理性の二律背反ではありませんが、「現実のなかに身をおいて、人間を深めていってほしい」としかいいようがありません。
リアルな話、おかしい連中やら有象無象らは歴然として存在する。
だから進軍ラッパを鳴らしてそれを退治する挑戦(キング牧師)は必要不可欠だと思う。しかしそれと同時にそれは自分自身の「ことがら」でもあるから、他人事という議論を慎重にしりぞけながら、「人間とは何か」という問題は、固定化した議論として答えをだしてしまうと非・人間を不可避に再生産してしまうから、たえず「人間観」を更新し続けながら、そうではない不断の挑戦を選択するほかない……っていう話です。
ヴェイユは、少女時代、底知れぬ絶望に落ち込み、思い悩んだことがある。
つまり、自分には何の才能もない、何もとりえもない……っていうそれです。
彼女の場合、兄がとびぬけて優秀であったこともその起因の一つだけれども、こうした悩みは、彼女だけの問題でもない。
ヴェイユは葛藤のなかで、古今の哲学者の思想をむさぼり読んだという。
自らの思索を深めつつ、同時に社会運動にも進んで参加したというが、苦悩の果てに、彼女は、ひとつの確信を掴むことになる。
そう、すなわち、どんな人間でも……才能が皆無であったとしても……真理を求め、たゆみなく前進していけば、天才にのみ許されるとされた“真理の王国”に必ず入ることができるという絶対の確信、そこにたどり着く。
曰く、
「“天才”とは暗い夜を乗り越えていく力の異名なのだ」。
ぶっちゃけたところ、もう、私にはできないとか云々式の立ち止まりは人生において存在する。そしてそれを自己責任流の議論が個人の個性へ還元してしまう。
そういうものは爆発していいと思う。
しかし、一個の人間としては、「勇気をもって挑戦への一歩」へ踏み出し続けるしかない……というのも現実だと思う。
だから、他人に勝つ必要はない。
だけど、挑戦はしていかなければならいのも事実。
であるとすれば、「創られた」エリートコースだけが「真実の道」と見誤るのではなく、私と私に関わる人間が、お互いにどう尊敬できるのかという仕組みにつくっていくしかない。
そんな……ね、
ひとつのきっかけになってくれたのであれば、使い捨ての「非常勤講師」にすぎないウンコ野郎ですが、
まあ、「哲学」の講座を担当した意義はあったのではないのだろうか……などと。
ともあれ、短い間ではありましたが、履修してくださって……、
ありがとうございましたッ!