聡明さとは、精神が真なるものに対して開かれていることである






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 私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか。それを知ることこそがもっとも重要であることについては、たやすく同意が得られることだろう。
 聡明さとは、精神が真なるものに対して開かれていることである。そうであるなら、聡明さは、戦争の可能性が永続することを見てとるところにあるのではないか。戦争状態によって道徳は宙づりにされてしまう。戦争状態になると、永遠なものとされてきた制度や責務からその永続性が剥ぎとられ、かくて無条件的な命法すら暫定的に無効となるのである。戦争状態がありうることで、人間の行為のうえにあらかじめその影が投げかけられている。戦争はただたんに、道徳がこうむる試練のうちに、−−しかも最大のそれとして−−位置を占めているだけではない。戦争によって道徳は嗤うべきものとなってしまう。手だけてもすべてをつくして戦争を予見し、戦争において勝利する技術、つまり政治が、かくして、理性のはたらきにほかならないものとして理性に課せられることになる。哲学が素朴さに対置されるように。政治が道徳に対置されるのである。
    −−レヴィナス熊野純彦訳)『全体性と無限 上』岩波文庫、2006年、13頁。

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確かに戦争は、「道徳を宙づり」にしてしまう。

しかし、戦争が起こっていなくてもそれは成立する。

「戦争状態になると、永遠なものとされてきた制度や責務からその永続性が剥ぎとられ、かくて無条件的な命法すら暫定的に無効となる」。

人を殺すと殺人を問われる。しかし戦争で人を殺せば勲章がもらえる。こうしたサカサマな状態は、戦争だけに限定されない。

「ありうる」だけで「道徳を宙づり」としてしまう現象は、日常を支配する「政治」の優位はあらゆる価値を転倒する。「政治が道徳に対置される」とは、「ほんとうは〜なんじゃないのか」という問いかけが忙殺・黙殺されるときなのだろう。

生活を疑わない。疑われずに続く常識にしたがって、みんながやっているからと続いていく。これにどれだけ「気付き」ができるのかが課題だと思う。

人は生まれた途端、死ぬまで壮大なディシプリンに雁字搦めにされ、躾や教育の名のもとにそうした「慣性」を「疑うまでもない」と「思いこみ」生きていく。しかし、その中には、「道徳を宙づり」にしてしまう装置がかなりの割合で仕込まれている。

文化や共同体、そして慣習というものは、全てが全てそうだとは言い切らないまでも、かなりの部分で全体にとって「都合のいい」ものとして生成され、個々の人間そのものに関心を抱かない巨大な機構として成立している。しかしときどきよく見てみると「ほんとうは、〜なんじゃないのか」とツッコミを入れたくなるものも多々ある。

何が人間を抑圧するのか。

だいたいの場合においてそれは「人間のため」を装ったものであることを忘れてはならないだろう。

聡明さとは何か。

それは得点エリートの優秀さではない。どれだけ気付きができるのかに収斂していく。

「聡明さとは、精神が真なるものに対して開かれていることである」。





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