覚え書:「日中歴史から考える 満州事変81年 (中) 成田龍一氏」、『毎日新聞』2012年9月16日(日)付。



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日中歴史から考える 満州事変81年 (中)
日本女子大教授(近現代日本史)成田龍一

政党政治、閉塞感に策無く
 満州事変(1931年)は、「大日本帝国」にとっての決定的な分かれ道だった。1920年代後半、普通選挙が実施されるにいたり、政党は人々の動向に目を向けるようになる。また政党内閣が定着して、既存の2大政党が対抗的に国のあり方をデザインしていた。たとえば民政党は「緊縮財政と国際協調」、政友会は「積極財政と対外積極外交」というふうに。ところが事変によって、帝国はそうした選択肢とはまったく違う方向へと向いてしまった。
 政友会は陸軍大将だった田中義一を党首に招く(25年)ことで、軍部と結び付こうとしたものの、米英との決定的対立は避けようとしていた。広い意味での協調外交だったと言える。ところが事変はその枠組みを壊してしまった。私は満州事変以降、アジア大平洋戦争への道を引き返すことは不可能だったと考える。時の民政党内閣(若槻礼次郎首相)は不拡大方針を決めた。これを貫くべきだったが、出先の関東軍に引きずられ事態を追認してしまった。
 当時の政党には、不拡大を貫き通すだけの可能性があったが、果たせなかった。あとは無産政党も含め軍部と組むことで自らの勢力保持、拡大を図ろうとした。
事変拡大の要因として、新聞メディアがこれをあおったという指摘がしばしばなされる。その通りであるが、もう一つかぎになったのは一般の人々の動向だ。不況が長引いて出口が見えずに、鬱屈感がまん延していた。その打開策として「満州」進出を待望していた。読者のそうした志向に応じた側面もある。
 一つの国でも内実は複雑だ。中国も日本も全ての勢力や集団が戦争を望んでいたわけではない。社会に閉塞感がただよい、既成政党への不信感が広まると、物事を単純化したり、外部に敵を作ったりする論理が出てきて支持されやすい。そういう安易な思考の危うさを、満州事変は教えている。【聞き手・栗原俊雄】
    −−「日中歴史から考える 満州事変81年 (中) 成田龍一氏」、『毎日新聞』2012年9月16日(日)付。

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