覚え書:「今週の本棚:池澤夏樹・評 『気仙川』=畠山直哉・著」、『毎日新聞』2012年09月16日(日)付。



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今週の本棚:池澤夏樹・評 『気仙川』=畠山直哉・著
 (河出書房新社・3360円)

 ◇「あの日」で分断された二つの時間をたどる旅
 たとえば、入学試験の結果を見に行くとする。
 結果はもう出ている。紙に書かれ、なんどもチェックされ、貼り出されるのを待っている。つまりそれは既に事実だ。しかし受験生であるあなたが自分の目で見るまで、あなたにとってはそれはまだ現実でない。
 ある写真が撮られた。しかし現像とプリントが済むまでそれは見えない。潜像のままで待っている。そういう時間がある。
 去年の三月、あの震災の直後、一人の男がオートバイで東京から陸前高田に向かった。彼はその町の出身で、肉親がそこで暮らしていて、その安否がわからない。不安な宙づりの心理状態。
 旅は困難だ。
 雪が降っているからオートバイで進むのがむずかしい。
 福島の原子力発電所から放射能が漏れたと聞いたので、遠回りをしなければならない。関越道で新潟県に出て北上、山形県の酒田を通って秋田県に入り、そこから奥羽山脈を越えて太平洋側に向かう。
 オートバイの燃料が足りない。どこまで行けるかわからない。たまたま開いているガソリンスタンドは何百メートルもの車の列。それに腹を立てながら男は「こんなに腹の立ついまここが……現実であるわけがない」と考える。
 途中で電話連絡が入る。現地にいる姉からどこかの避難所に用意された衛星電話でかかってきた電話−−「かあさんもねえさんも……」というところだけが聞き取れた。この姉は生きている。しかしもう一人の姉と母はどうなのか。
 男は写真家である。
 だがこれまで自分の記憶を助けるために写真を撮ることはなかった。郷里であり母と姉たちが住む地である陸前高田を作品にしようと意図して撮ったことはなかった。
 オートバイの旅の途中で、二人の姉は無事だが母はもういないということがわかった後、かつての偶然の機会になにげなく撮ってきた町のスナップに違う意味が生じてしまった。その風景はもう亡いのだから。
 三月十一日は我々の時間を分割した。あの日を境にして「以前」と「以後」は違う時代に属する。多くの人がそう感じたが、これほどはっきりあの日の前と後を表現した本は他に知らない。
 文章と写真を組み合わせるという手法が実に雄弁。「以前」にあるのは穏やかな、美しいとも言える光景を写した日常の写真で、その間々に切迫した旅を綴(つづ)る文章が挟まれる。ページを繰るごとに両者が交互に現れる。二つは決して混じり合わない。写真を見る時には心地よさを感じるが、文章はその心地よさが失われたという戦慄(せんりつ)を伝える。
 男には友人たちの支援がある。あの日の後で被災地の人たちが体験したボランティアの支援を先取りするものだ。オートバイでは無理だということが明らかになり、友人たちの車でリレーしてもらえそうというので、酒田のスーパーで食べ物や雑貨をたくさん仕入れて雪道を歩いている時、姉からの決定的な電話が掛かってくる。
 「この六日の間に僕が頭に描いていた、母にかんするさまざまな希望的情景、友人たちと分かち合っていた、動きを伴う無数の情景が、すべて偽りであったと、いま誰かが託宣を下したのだ」というくだりを読んで、人間はいつだってこういう形で運命と出会ってきたと思った。
 陸前高田に男が到着したところで文章と共に「以前」の写真は終わる。後には被災の惨状を写した「以後」の写真が延々と続く。もう文章はない。見事な構成であり効果である。
    −−「今週の本棚:池澤夏樹・評 『気仙川』=畠山直哉・著」、『毎日新聞』2012年09月16日(日)付。

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