学んだことを忘れてゆくという経験。自分が経てきたさまざまな知や文化や信念の堆積に、忘却がほどこす予期しない手直しを自由におこなわせてゆくということ。


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ミシュレは、五一歳のとき、新たな人生(vita nuova)を始めた。新たな仕事、新たな恋愛を始めた。私は彼よりも年をとっている(この比較が親愛の情から出ていることはわかっていただけよう)が、私もまた今日、この新たな場所で、この新たな厚遇によって示された、新たな人生を歩み始めるのである。それゆえ私は、生きとし生ける者の生の力、つまり忘却に身をゆだねたいと思う。一生のうちには、自分の知っていることを教える時期がある。しかしつぎには、自分の知らないことを教える別の時期がやって来る。それが研究と呼ばれる。いまはおそらく、もう一つの経験をする時期がやって来たのである。つまり、学んだことを忘れてゆくという経験。自分が経てきたさまざまな知や文化や信念の堆積に、忘却がほどこす予期しない手直しを自由におこなわせてゆくということ。この経験には、輝かしくも時代遅れの名前がつけられていると思う。ここではあえてその名前を、まさに語源的意味の分かれ目において、劣悪感なしに採用することにしよう。すなわち、「叡智」(Sapientia)。なんの権力もなく、少しの知(サボワール)、少しの知恵
サジェス)、可能なかぎり多くの味わい(サヴール)をもつこと。
    −−ロラン・バルト(花輪光訳)『文学の記号学  コレージュ・ド・フランス開講講義』みすず書房、1981年、57−58頁。

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昨日は担当する後期の「哲学」講座の初日だったので、ロラン・バルトの「開講講演」を再読しました
※神学界隈ならロランじゃなくてカールを読めって話でしょうがw。

ロラン・バルトは所詮、文芸評論の二軍扱いでスルーされるフシがありますが、じっくり読むと、なかなか意義深いものがあると思います。

冒頭の一節は、バルトがコレージュ・ド・フランスに招聘された折り、その開講講義の末尾一節になります。

ちょうど最初の授業(ほとんどがガイダンスに終始してしまうのが今の大学ですが、それでも40分程度は何とか導入授業しましたが)、反応は、「面白そう!だけど難しいかも?」というアンチノミーがやっぱり多いですよね。

前者は好奇心が発露する感想であり、それと同時に提示された後者は、彼女たちがこれまで営為してきた既存の価値観が破壊されることへの恐怖だと思います。

もうなんども言及しておりますが、私自身は旧時代的教養主義orzな人間でありますし、大学は「建前」かもしれませんが、そのベースを鍛える「場」だと考えております。

だとすれば、大学で「学問」するということの特徴とは何かといった場合、まずはこれまでの「義務教育」の「学習」とは違うという認識を持つことではないかと思います。そもそも大学とは……これも「建前」と嘲笑われるかも知れませんが……「義務」で入学した訳でなく「志願」して入学し、学問しようという設定になります。

義務教育では教室や教科書でとりあえず諸学は「完成」するという設定です。これもひらたくその特徴の一つを指摘すれば、いわゆる基本的道具を揃える段階といってよいでしょう。言葉の運用、論理的精確さ、社会や自然への基礎的知識の習得……といった諸々を身につける訳ですから、そこでは詰め込みになってしまう精確があります。
※理念からすれば、ホントはちゃうやんけというツッコミは措きます

しかし大学で学問を習熟するとは、全くことなる性質を有しております。教室や教科書、参考書といったものは、ひとつのきっかけや意識づけに過ぎず、そこで得た示唆からどう展開し、どう教員や図書館を利用していくのか、ここに大きなウェイトがあると思います。そのことで自身の教養をカルチベートしていくという寸法だと思います。
※とはいえ、就職予備校と化した現実の大学教育は「キャリア教育」だの資格・試験への突破といったものを重視し、義務教育以上の「詰め込み」スタイルが全盛なのは承知しておりますが(涙

設定の違い、学ぶ意義の違いその意味で、これまでのスタイルに引きずられると「難しい」という抵抗感を抱くのも必然だとは思います。

しかし、その抵抗感をこえ、いわばエポケーして自由に挑戦していくことも、人間が学問するという意義では大事です。

その意味でバルトのいう「自分が経てきたさまざまな知や文化や信念の堆積に、忘却がほどこす予期しない手直しを自由におこなわせてゆくということ」に注目したいと思います。

バルトはこれを教授する側から発言しておりますが、これは受け手の側も同じだと思います。私自身も、毎度、新しい学生さんを前にすると触発の連続で、これまで積み重ねてきた営為というものが木っ端みじんに砕け散る瞬間があり、「ああ、そういう発想もありか」などとビビることもあります。ですから逆も同じであるような柔軟な発想で取り組んでいくことこそ、学問が深まっていく秘訣になるのではないかと。
※もちろん、論理的整合性を無視するのではないのは言うまでもありません。

これまで身につけた知識や社会に対する構えというものをいったん「保留」にして、もう一度学び直すというのが「真理」への接近とバルトは解く。そしてこのことはスピヴァクのいうアンラーン(unlearn)や鶴見俊輔のいう「学びほぐす」という観点と同義かなと思われます。

これまでの身につけてきた既存の価値観や習慣、「まあ、そういうものだろう」というドクサをいったん「保留」し、「学びほぐす」挑戦をともにしてゆきたいと思います。そしてそれが哲学を学ぶ醍醐味もあります。

そのこで、当初は「面白そう!だけど難しいかも?」というアンチノミーは、「ほぉ、面白いなあ」になっていくと思います。


1月までの15回、どうぞ宜しくお願いします。





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