「思想の証なんていいたくない」けれども「毎日をエンジョイした方が利口だという考え方」でもありたくない
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人をみて法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生まれたら、あまり思想の証なんていいたくないんですよ。(中略)しかし、日本では、一般現象として観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。
−−丸山眞男 対談「民主主義の原理を貫ぬくために」、『新日本文学』1965年6月号、152頁。
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変則的なのですが、千葉の短大で担当する「倫理学」は前期のみ開講科目なのですが、2年生の最終講義日は9月になってからの設定になりますので、本日無事終了。
特に何かという訳ではありませんが、大学で「倫理学」を学ぶとは……そして、これは授業のなかで何度も言及した点ですが……どれだけ「柔軟に発想」できるかという技能を身に付けることではないかと思います。
ただ、そうはいっても、私たちの住む日本という国土世間は「ずるずるべったり」をエートスとしますので、丸山眞男先生にならって(ぇ、少し理念の立場を強調したことは否めません。
しかし、それは、今生きている私たちと同じ悩みを抱えた過去の先達たちの思索を追体験することで、では実際に自分はどう考え、判断するか、という思考実験でもありますから、「思想の証」をたてよ!というのと同義ではない点も理解してもらえたかと思います。
生きている生活世界のなかで、少し立ち止まり、「ひとはそういうけれども、実際はどうなのだろうか?」という構えを忘れずに、籠絡をかわしながら、恬淡と自身の道を歩んで欲しいと思います。
さて、丸山眞男は、日本のずるずるべったりを指摘しましたが、同時に、観念の奴隷になってしまうことにも警戒的です。問題はこの二項対立しか浮かび上がってこないことでしょう。前者だけが「人間の世界」だと思い切ってしまうのも問題ですし、生活者の視座を失念して後者のみにあつくなってしまうのも不幸でしょう。
マイホームへの沈潜と、政治化への熱中というのは、確かに相反するベクトルですが、立ち位置に無自覚である点や、人間を人間として扱わない抽象志向@ヤスパースという意味では同根です。そしてそれが「日本的なパターン」を形作っております。
だとすれば、そうではない選択肢を選択できるようになりたいものですね。
ともあれ、皆様、ありがとうございました。
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一方で、「限界」の意識を知らぬ制度の物神化と、他方で規範意識にまで自己を高めぬ「自然状態」(実感)への密着は、日本の近代化が進行するにしたがって官僚的思考様式と庶民(市民と区別された意味での)的もしくはローファー的(有島武郎の用語による)思考様式とのほとんど架橋しえない対立としてあらわれ、それが「組織と人間」の日本的なパターンをかたちづくっている。
−−丸山眞男『日本の思想』岩波新書、1961年、61頁。
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