iPS細胞に関する「騒動」について




iPS細胞に関する「騒動」については、ほとんど論点が出てきたみたいだけれども、自分自身もそれについて、少しだけ言及しておこうと思う。

まず、最初に渦中の氏自身がトンデモなことをやったことを「スキャンダル」として受容することには関心がない。

私の関心は、彼の「暴挙」がいわば必然だったと思われるからだ。

その「暴挙」を必然させた要因とは何か。はっきり言ってしまえば、この国のアカデミアを巡ると環境とエートスに他ならない。

先に“「スキャンダル」として受容”と言及した。最初に注目されたのは「成功」の発表が事実なのかどうかという点である。それがボロボロとなし崩しになってきた。そうするとメディアは、渦中の人物の身辺動向まで「のぞき見」“趣味”であばき出すことにしのぎを削るようになって来た。

前者は必要だとしても、後者は必要な筈はない。そこで出てきたのが、職歴が転々としたあやしい奴という人物像だ。しかし、アカデミアをめぐる環境の下部のまだ“ましな部類”としての不安定な任期職や特任職を積み重ね「しのぎを削る」人間はたくさん存在するし、専任職の研究者よりも、優秀な人間は掃いて捨てるほど存在するだろう。

そう、アカデミアの環境とは、日本で最も前近代的な「ギルド社会」であり「我慢構造」であるということ(※もうひとつ踏み込んで言及すると、最強の口利き社会でもあります)。

だからといって功績を急いで下手を打ったことは許されるものでないことは言うまでもないし、これは学問における研究倫理に限定される話題ではなく、あらゆる人間の「倫理」における問題である。

その意味では、非専任を続けてきた渦中の人物を「いつまでも専任につけない程度のひくい怪しい人間」とストレートに答えを導くことには反対したい。
※勿論、氏のサイコパス的な言動や欺瞞ゆえにそういう環境に定位したと推論することは可能でしょうが、非専任=「程度の低い」「怪しい」人間と見なす論理構造は破綻していることはいうまでもない。

その意義では、人物スキャンダルに「歪曲」し「ネタw」として「消費」するのではなく、アカデミアの環境のもつ前時代性、そして現実の構造としての「非正規雇用」のうえに「あぐらをかく」構造の見直しへの「きっかけ」となって欲しいとは私は考える。

次にエートスに関して。先に「アカデミアの環境とは、日本で最も前近代的な「ギルド社会」であり「我慢構造」であるということ」と紹介した。このギルドの我慢社会とは、実際には、「真理の探究」という手垢にまみれない「無菌室」的客観公平世界のように“夢想”されがちだが、それは全くの誤りといってよいだろう。

無菌室どころか細菌が満ちあふれ、客観どころから親分の一声が真理をねじまげる恣意的世界であり、公平とは程遠いのが現実だと思う。勿論、それがすべてではありませんが、体質として色濃くあるのは事実である。

修学時代の個人的経験としては、優れた先生に恵まれたし、昨今話題になるような、一般世界では考えられないような「アカデミック・ハラスメント」のニュースを耳にすると、自分自身は幸福な環境だったと思う。しかし、現実には業績よりも、出自や考え方で大きく左右される世界でもあることは、教える立場になってから色濃く感じるようになった。このことは否定できない。

で……戻ります。

独学で仏教を研鑽し、男性としてはじめて御茶ノ水女子大学で博士号の学位を取得したフリーの研究者・植木雅俊氏は、学問を導いてくれた恩師・中村元博士のことばを次のように記している。

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 中村先生は、「思想・心情・性別・国政・年齢・学歴などを一切問わない」「学びたい人が学び、教えたい人が教える」ということをモットーとされ、誇りを持って“財のない財団法人”“寺子屋”と称しておられた。また、講義の際は「人文科学では、優れた論文を書いても、“偉い先生”が『これは駄目だ』と烙印を押すと、その人は二度と浮かばれない。学問においてそんなことがあってはなりません」と、力説されていた。
    −−植木雅俊『思想としての法華経岩波書店、2012年、30頁。

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現象の一端を示した文章ではないかと思う。だからこそ中村先生は、大学の「アカデミズム」というカテゴリーや語彙を使わず、敬意を込めて「学問」という言葉で、その本来性を言及されておりますが、うえでいうような体質は、何も「人文科学」に限定されるものではない。

その意味では、ここ数年「ブラック企業」という言葉が注目を集めましたが、アカデミアの世界とは「ブラック企業」的なところでありますから、人間の精神に「歪み」が出てくるのは必然と考えたほうがいいでしょう。

加えて、渦中の人物は、ご自身からメディアにアプローチしたと報じられておりますが、なんらその内容を精査せず、ネタとして飛びつき「特ダネ」として報道したメディアの罪が大きいことは言うまでもありません。その意味では、そのことに「蓋」をして(=テケトーな「誤報でごめんちゃい」の三行広告で済ませる)、その人間を人類の敵のように扱い、やいのやいのと関係のないことまで「ほじくりだす」のは見苦しいし、辞めて欲しい。私たちが報道に必要としているものはそういう性質の「ニュース」ではない。


まあ、ながくなりましたが、渦中の人物に同情する余地は全く存在しない。しかし、そういう現実を振り返ると、iPSをめぐる「騒動」を決して「騒動」で終わらせてはいけないと思う。そう考えて、少し私自身の実感を書きつづってみました。

まあ、そういうお前も非常勤とはいえ「欺瞞の帝国」の住人だろうといわれればそれまでですが、それでも、学問世界奈落のパン屑拾いの自覚ぐらいはありますよ。それから籠絡されないように生きている「矜持」もありますよ。

以上。






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