研究ノート:上杉思想の本質的な点への批判を怠った結果は、国民にとってよいことはすべて国家が引き受けるという官僚的国家主義への批判の弱さにつながった。

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 美濃部にせよ吉野作造にせよ、大正デモクラットは、国家的な規範価値が国民の内的要求と一致すべきことを要求した。そしてこの「民心」は二〇世紀欧米自由主義のなかに準備されているものと同質であると信じた。だから彼らは、官僚層もまたこの自由主義に同化すべきことを要求し、これに逆らって古い思想に固執するものを攻撃した。ところがこの時代を見直してみると、官僚のある部分が、吉野らに教えられて欧米デモクラシーに学びながら、そのデモクラシー的価値を国家規範に実現する過程を独占しようとしていたことに気づく。官僚主導の労働組合法や小作法の推進などはその例である。これらに登場する官僚は多少ともデモクラットであって、この時代における現実の「哲人」としてふるまったのである。
 デモクラシー運動からする批判は、官僚層の抱くべき規範内容を民主化することにとどまらず、彼らの国家をつうずるヘゲモニーの伝統を攻撃するべきであった。この伝統こそ自由主義派を含む官僚層が上杉慎吉と、たがいに意識せずに共有したものである。だから上杉の思想は、二〇世紀に議会主義と並んで進行していたもう一つの現実、行政国家の成熟に、官僚層が自己適応する過程のイデオロギーという面ももつのである。
 つまり、上杉思想の本質的な点への批判を怠った結果は、国民にとってよいことはすべて国家が引き受けるという官僚的国家主義への批判の弱さにつながった。三〇年代の労働運動について一言すると、二〇年代の運動が力で叩きつぶされ、政治的に解体されたあと、労働者大衆は個別企業コーポラティズムとでも呼ぶべきものに分断されるが、天皇主義にかつてなく浸されたこの企業別労資一体は、やがて産業報国体制にみずから流入していくことになる国家的権威主義を、はじめからもっていた。
    −−伊藤晃「上杉慎吉論」、富坂キリスト教センター編『近現代天皇制を考える2 大正デモクラシー天皇制・キリスト教』信教出版社、2001年、90−91頁。

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上杉慎吉の思想の問題点は、その天皇親政論にみられる専制擁護だけではないかも知れない。

上杉の主張は「前時代的」であり、イデオロギー性を批判し、超克していくことは必要だと思われる。しかし、その点にのみ惑溺するならば、上杉思想は形をかえて蘇ってしまうかもしれない。

上杉は確かに「天皇親政」を主張したが、前時代的王政復古を目指したわけではない。近代国家の形成において、天皇が体現する民本主義を主張している。この点に留意することは必要だろう。

上杉の説く絶対君主主義とは、「エゴイスト」の君主主義の再来ではない。天皇を紐帯とした疑似家族主義に粉飾した「よいことはすべて国家が担当する」という倫理国家である。

問題に対する批判とは、おうおうにして、それがよいことか悪いことかが論点となる。しかし、それと同じように大切なことは何か。

「よいことであれ、そもそもそれをなぜ彼らがやるのか」。

歴史を振り返るとこの批判が脆弱だったことは否めないし、そうした精神的態度は今も続いている。「何か上から来るものを媒介として自分の生活と意識を作る人びとが天皇の存在を疑問」としないのは、当然であるし、「そもそもそれをなぜ彼らがやるのか」と口を挟む事態が憚れる「世間」を形成するのであろう。

しかし、この態度こそ、共同体の欺瞞を加速させるものであるゆえ、たえず問い直す必要があると思われる。

吉野作造民本主義を説く中で、整備の充実よりも、民衆の「元気」自体を常に気にかけた。制度論や事案の真偽論は大切だ。しかし、そこのみに拘泥しないようにありたい。










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