省察をおこなうには、まず隣人のところへ行って、隣人が生活するために、また生き延びるために、どのような仕方を採用しているかを見にいかねばならない
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省察をおこなうには、そして自分について省察をおこなうには、まず隣人のところへ行って、隣人が生活するために、また生き延びるために、どのような仕方を採用しているかを見にいかねばならない。選ぶべき隣人はどんな隣人でもかまわない。というのも人文科学を学ぶというのは、失われた巨大な知を再びわがものとすることであり、異郷に生きるという経験を、深みをもっておこなうことだからである。
それぞれの人間は、自分の生まれ故郷の風景について、日々の偶然によって与えられるままに集められた、無秩序な、数え切れないほどの所与を所有しているのだが、それらの所与が再検討されることは滅多にない。そうした所与でもっとも強い力を持つものは、往々にして、幼年時代に獲得された、胸を刺すような獲得物まで遡るものであり、それゆえにそれに触れられるとひとびとは敏感に反応する。他の所与は、日常生活の磨滅の埃の下にかき消されてしまう。
−−ティヨン(小野潮訳)「北アフリカを対象とする民族学への序説」、ツヴェタン・トドロフ編(小野潮訳)『ジェルメーヌ・ティヨン レジスタンス・強制収容所・アルジェリア戦争を生きて』法政大学出版局、2012年、372−373頁。
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誰もが「人間のために」と語るし、そう語ることはたやすい。
しかし、それが実際のところ、「人間のために」なった話は、話された分量のうちごくわずかではないかと思う。
策戦的「利用」は除外するとしても、その残った内を検討してみた場合でも、そしてそれが「善意」が発露であったものであったとしても「人間のために」が「人間のために」なることは困難を極めることが多く存在するように思われる。
なぜそうした本末転倒になるのでしょうか。
様々な要因は考えられますが、その一つとして指摘できるのは、「人間のために」と発話する側が、その「人間のために」として扱われる「人間」を形而上的に規定し、そこから溢れてしまう多様な「人間」を非・人間として分断的に扱ってしまうからではあるまいか。
カントの理性の二律背反を想起するまでもないし、レヴィナスの「全体性と無限」を引用するまでもない。しかし、そうした定義の分断と、同化の暴力は、おうおうにして「善意」からほとばしるものでもあるからこそ、そこに関しては慎重にありたい。
こんな話をするとどうするの? などとよく聞かれるけれども、結局は、人間観を不断に更新するわけしかないのですが、では、それを具体的にはどこから始めるのか。
結局の所は、どこか遠くから始めるのでも、ポリティカリィー・コレクト・トークンを発話することで「はい、OK」とするのでもないところにあるのではないかと思う。
それは、どこなのでしょうか。
希有の、そして本物の人間主義者・ティヨン女史の語る通りではないでしょうか。
そう、それは……
「省察をおこなうには、そして自分について省察をおこなうには、まず隣人のところへ行って、隣人が生活するために、また生き延びるために、どのような仕方を採用しているかを見にいかねばならない。選ぶべき隣人はどんな隣人でもかまわない。というのも人文科学を学ぶというのは、失われた巨大な知を再びわがものとすることであり、異郷に生きるという経験を、深みをもっておこなうことだからである」。
……なんだと思う。
詮索やら興味本位では、相互理解とは、自身の世界環境における、私とは何か、他者とは何かを、その生活の息吹の中で、絶えず認識を新たにしていくところからしか始まらない。
そこを、みんな失念して、喧々囂々しているような気がする。