覚え書:「今週の本棚:中村達也・評 『ブータン −−「幸福な国」の不都合な真実』=根本かおる・著」、『毎日新聞』2012年11月18日(日)付。




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今週の本棚:中村達也・評 『ブータン −−「幸福な国」の不都合な真実』=根本かおる・著 (河出書房新社・1575円)

 ◇難民問題で知る「国民総幸福」のもう一つの意味

 この数年来、ブータン本がブームである。先進諸国が経済成長にいささか疲れて低迷していることもあろう。そもそも経済成長が豊かさや幸せに結びつくのかといった疑問が繰り返されてきたこともあろう。そんな中で、すでに一九七〇年代に、先代のブータン国王が提唱したGNHが改めて関心を呼んでいる。

 経済優先ではなく国民の幸福こそが第一、GNP(国民総生産)ではなくGNH(国民総幸福)が重要との宣言であった。今にして思えば、まさに先進諸国が抱える今日的な課題への一つの答えだったかもしれない。さらに昨年、東日本大震災後に来日した若い新国王夫妻が、同行した僧侶たちと共に震災犠牲者に祈りを捧(ささ)げた姿が印象に残っている人も多いにちがいない。民族衣装に身を包んだ国王の国会での魅力的な英語演説を思い起こす人もいるだろう。

 それにしても、世論調査で国民の九七%が「幸福」と答える国とは、一体どのような国なのか。何冊ものブータン本で紹介されているように、なんとも穏やかな笑顔の子供たちや大人の表情を見て、救われた気持ちになる人も多いにちがいない。関心の高まりを受けて、旅行会社によるパックツアーの企画も出始めているようだ。まるで桃源郷のような「幸福の国」のイメージが一人歩きしているような気さえする。

 ところで、本書のサブタイトルは、「幸福な国」の不都合な真実、である。ただし断っておくが、本書は決して反ブータン本ではない。多くのブータン本が指摘しているようなこの国の魅力を著者が否定しているわけではない。ただ、これまでほとんど触れられることのなかった問題に真っ正面から取り組んだほとんど唯一の著書ではあるまいか。その「不都合な真実」とは、実は難民問題である。人口六十数万人のブータンが十万人を超える難民を生み出しているのである。

 ブータンからの難民となった人々が、ネパールの難民収容所に身を寄せている。著者は、国連難民高等弁務官事務所の現地事務所所長としてネパールでの難民支援の現場にいた。国民総幸福という場合の「国民」とは、いうまでもなくブータン国民のことである。そしてブータン国民であることの要件は、五〇年代の国籍法で定められたのだが、七〇年代、八〇年代になってそれが改正され、その要件はいっそう厳しくなった。国語であるゾンカ語の読み書きができること、ブータンの歴史と文化を理解していること等々に関して資格試験を課しそれにパスすること、さらに国際結婚に関する厳しい条件、等々。そうした要件を満たさない場合には国籍が認められず、ブータンを離れることを余儀なくされる。

 そうした政策推進の背景には、実は西に隣接していたシッキム王国の滅亡という歴史の苦い経験があった。ブータンと同様にチベット仏教を国教とするこの小王国が、ネパール系の住民との民族対立を機に政治が混乱し、七五年についに滅亡、インドの一つの州として併合されるにいたった。ちなみにシッキム国王は先代ブータン国王の縁戚に当たるという。それだけに、ブータン南部の亜熱帯ジャングル地帯に住むネパール系住民の存在は、シッキム王国の滅亡と重ね合わせて大いに気がかりな存在であったにちがいない。こうして見ると、国民総幸福という世界中の関心を集めている理念は、GNPやGDPに代わる指標としての意味合いだけではなく、中国やインドという大国に挟まれ、多くのネパール系住民を抱えるブータンが、その存続を賭けた国際社会へのメッセージでもありそうだ。
    −−「今週の本棚:中村達也・評 『ブータン −−「幸福な国」の不都合な真実』=根本かおる・著」、『毎日新聞』2012年11月18日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121118ddm015070031000c.html


http://www.japanforunhcr.org/act/a_asia_nepal_01.html


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