覚え書:「今週の本棚:池内紀・評 『フランス組曲』=イレーヌ・ネミロフスキー著」、『毎日新聞』2012年12月16日(日)付。




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今週の本棚:池内紀・評 『フランス組曲』=イレーヌ・ネミロフスキー著
 ◇池内紀(おさむ)・評

 (白水社・3780円)

 ◇誇り高く優雅な「占領下の観察」

 連作にあたる小説二編と作者ノートなどがついて計五六五ページ。強力な磁石にすいよせられるようにして読みふける。その魅力の秘密は何だろう?

 語られる状況、経過、人物の動き? たしかにそれもある。一九四〇年六月が初まりだ。第二次世界大戦に突入して二年目。五月、ドイツ軍は西部戦線に総攻撃をかけてルクセンブルク、オランダ、ベルギーを席捲(せっけん)、フランス軍の守りの要マジノ線を突破。パリ陥落目前である。「大砲の音はまだかなり遠くで鳴っていたが、やがて近づき始め、それにともなって窓ガラスがふるえ出した」

 いまや通りに人影はない。店は鉄の鎧戸(よろいど)をおろしている。死のような静けさのなか、またたくまに噂(うわさ)がひろまった。ドイツ軍がセーヌを渡ったという。静けさが破れ、通りに人の波があふれ出た。いっせいにパリを捨てる。われ先に街から逃げる。一作目の「六月の嵐」は、嵐のようなパリ市民たちの大脱出(エクソダス)を語っていく。

 歴史的経過をまじえると、六月十四日、ドイツ軍、パリ入城。十六日、対独協力のペタン内閣成立。二十二日、独仏休戦協定調印。フランスはドイツ軍占領地区と非占領地区に二分された。

 二作目の「ドルチェ」は、占領地区の小さな町の一年を述べていく。主だった家や農家が占領軍の宿泊所になり、ドイツ軍将校たちがフランス人家族と一つ屋根に住み、日常をともにする。夫が出征して留守を守る美しい妻と、教養に富み、礼儀正しく、音楽好きのドイツ人青年中尉。タイトルは音楽用語で「甘く、やわらかに」の意味。

 裕福なブルジョワ一家、名の知れた作家と愛人、銀行幹部、同じ銀行の会計係夫婦。あるいは小さな町の名士の屋敷、町外れの農家、避難地の夫婦とその隣人……。いくつもの家族の経過が時間をたて軸とし、短いシーンの組み合わせを横軸としてオムニバス映画のようにえがかれていく。語り口、スピーディなテンポ、それもまた強力な磁石の役まわりだが、やはりそれだけではないだろう。魅力のありかは、あきらかに素材や形式をこえている。ただこの作者ひとりにあって、とうていほかでは見出(みいだ)しえないもの。ひとことにしていうと、精神の緊張と偉大な優雅さ。

 巻末につけられたノートや資料にあたるとわかる。「六月の嵐」は、まさに嵐の渦中で書きつがれ、占領下の小都市の経過は、占領下の小さな町で書き上げられた。作者イレーヌ・ネミロフスキーには、ほかにどんな手だてがあっただろう。ロシアに生まれたユダヤ人銀行家の娘は、ロシア革命ポグロムユダヤ人迫害)を逃れてパリに移り、二十六歳で才気あふれる女性作家としてデビューした。以来、十年あまり。才能がまさに大輪の花を咲かせる矢先に世界大戦の大波が押しよせてきた。生活、信仰、信条すべて非の打ちどころのないフランス市民だというのに、フランス政府は早々と白旗をかかげ、昨日までの隣人が「私を突き放したあの者たち」に変貌した。作者ノートの書き出しにある。「国が私を拒絶するなら、こちらは国を平然と観察し、その名誉と生命が失われていくのを眺めていよう」

 一九四二年七月、フランス人憲兵ユダヤ人検挙にやってきた。同じ運命を覚悟した夫の手で原稿は小型トランクに詰められ、幼い娘に託された。世に出るのは六十二年後のことである。文学のフシギさ。怨念(おんねん)をこめた「観察」が、書きつづられるうちに変貌をとげ、卑しさを押しのけて人間の尊厳があらわれ、誇り高い矜持(きょうじ)が組曲の旋律のように流れている。(野崎歓・平岡敦訳)
    −−「今週の本棚:池内紀・評 『フランス組曲』=イレーヌ・ネミロフスキー著」、『毎日新聞』2012年12月16日(日)付。

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