真の自由、真の始まりがあるとすれば、それは、つねに運命の頂点にあって永遠に運命をやり直すような真の現在を要請するであろう
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政治的な意味でのさまざまな自由は、自由な精神の内容を汲み尽くすものではない。ヨーロッパ文明にとっては、自由とは人間の運命に関するひとつの考え方を意味している。人間の運命とは、人間に行動を促す世界ならびにその諸可能性を前にした人間の絶対的自由の感情である、というのだ。〈宇宙〉を前にして、人間は永遠に自己を刷新しつづける。極論すれば、人間は歴史をもたないのである。
それというのも、歴史とはこのうえもなく根深い制限であり、根本的な制限であるからだ。人間的実存の条件たる時間は何よりも、とり返しのつかないものの条件である。ある事柄が成就されると、それは逃れ去る現在に持ち去られて、人間の支配を永久に免れるのだが、にもかかわらず、それは人間の運命に重くのしかかる。事物の永遠の流れや、ヘラクレイトスのいう虚しい現在ゆえの憂鬱の背後には、消去不能な過去の終身性の悲劇が存していて、それはイニシアチヴを過去の継続でしかないものたらしめる。真の自由、真の始まりがあるとすれば、それは、つねに運命の頂点にあって永遠に運命をやり直すような真の現在を要請するであろう。
−−レヴィナス(合田正人訳)「ヒトラー主義哲学に関する若干の考察」、『レヴィナス・コレクション』ちくま学芸文庫、1999年、93−94頁。
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人間の自由とは、それに関する一覧表のようなものがあらかじめ存在して、その一つ一つが獲得されているのか・あるいは・されていないのかとか、政治的に保証されているのか・あるいは・されていないのか、を確認する作業によって、数え上げられたり、特徴を指摘したりされたりするものではないのではないか。
たしかに、人間の自由の歴史とは、いくつかの焦点に合わせて、その獲得具合を目安にすることで、その内実をはかることは不可能ではないし、そうした「保障」を狭めようとする政治的蠢動が有象無象とし始めている現下の風潮を省みるに、それに対して、抗することは無意味ではなく必要といってよいと思う。
しかし、合理的・功利的・策戦的アプローチによって、人間の自由なるものの充全性を語ることは不可能なんだと思う。
そして、その対極に位置する、ロマン主義的アプローチによっても不可能であることも明らかではないだろうか。
だとすれば、どこに存在するのか。
「真の自由、真の始まりがあるとすれば、それは、つねに運命の頂点にあって永遠に運命をやり直すような真の現在を要請するであろう」。
レヴィナスがうえの文章を書いたのは、ヒトラーが政権を獲得した翌年の1934年のこと。ヨーロッパ大陸では、人間の自由を侵害するナチズムに対して、単純な遵法闘争によってなんとかなるのではという楽観主義と、ロマン主義的悲観主義の立場から内向への撤退による自存へと、ひとびとは揺れ始めた。
どちらか一方が素晴らしく、どちらかが無駄というわけではない。しかし、それだけでないところに、「自由」が定位することを認識として含意しておかない限り、後出しじゃんけん式に歴史に全体性に回収されてしまうのも事実であろう。
さて……。
本日12月25日は、エマニュエル・レヴィナス大先生のご命日(1995年)。
師の思索を、もういちど、生活のなかで、読み直しておきたいと思う。