覚え書:「今週の本棚:張競・評 『名画に隠された「二重の謎」』=三浦篤・著」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。




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今週の本棚:張競・評 『名画に隠された「二重の謎」』=三浦篤・著
 (小学館101ビジュアル新書・1155円)

 ◇推理小説風の仕掛けで奥深い世界を旅する

 一冊の本が絵の見方をこれほど変えてくれたのは初めての経験だ。近代絵画の奥深さはいうにおよばず、紙背に徹する批評眼と達意の文章は美術批評の極意を雄弁に語ってくれた。

 推理小説を思わせるような語りはちょっとした遊び心だが、難解な名画をわかりやすく説き明かすのにはぴったりの小道具である。冒頭から示されているのは、マネの《笛吹き》に二つの署名があるという謎だ。数回、見たことのある作品だが、一度も気付いたことはない。意表を突かれて、真相を知りたい好奇心がにわかに掻(か)き立てられた。こうした工夫は各章にちりばめられている。

 名探偵と同じように、名画の案内人は天才的な観察力を持っている。いかなる微細な違いも決して見逃さない。アングルの《パフォスのヴィーナス》に左腕が二本描かれているのもそうだが、素人ならほとんどの場合、謎があることに気付かない。さすがに美術史家は絵を見る目は鋭い。

 むろん名画探偵はここで終わるのではない。ホームズを凌(しの)ぐ推理力はむしろここから本領を発揮する。わずかな物証を手がかりに、謎解きの旅が始まる。調査を繰り返し、現場検証を積み重ねた結果、ついに重大な事実を突き止めた。

 印象派の先駆者として、マネはかねてから日本の浮世絵版画に強い興味を示した。立体感を強調する西洋画の伝統に反して、平坦(へいたん)な色面対比を《笛吹き》で大胆に試みた。しかし、この革新的な挑戦は、簡単には認められなかった。それどころか、保守派から批判の十字砲火を浴びせられた。さすがに本人も空前の技法冒険に対し、一抹の不安があったのであろう。そうした心理のわずかな揺れが絵の細部に現れた。斜めに入れられた署名には、行き過ぎた平面性への歯止めという機能が託されている。このように、一つの署名から、美術史の背景や、新しい技法をめぐる保守派と革新派のせめぎ合いが炙(あぶ)り出された。「二重の謎」とは「二重のモティーフ」であると同時に、「二重の意味作用」でもあった。

 《笛吹き》は九つのミステリー事件の一つに過ぎない。ここから著者による探偵と推理はいよいよ佳境に入る。クールベドガゴッホセザンヌなど日本でも馴染(なじ)みのある画家をめぐる謎が次々と解き明かされた。いずれの場合も謎解きは一つの仕掛けに過ぎない。一連の「事件」を通して、フランス近代絵画史の見取図が明瞭に浮かび上がってきた。そして、謎解きの過程で、神話や宗教などを主題とした「歴史画」の特徴、裸婦の寓意(ぐうい)、空間を重層化する手法など、西洋美術の基礎知識も巧みに紹介されている。

 ヴァルター・ベンヤミンの憂鬱はどうやら美術の世界でも共有されていた。写真に象徴されるように、現実世界を複製する技術の確立によって、芸術作品の真価が問われるようになった。画家たちは誰よりもまずこの危機を直感した。そこで登場したのが、絵画の虚構性や人工性の戯れであった。「もっとも美しい絵は額縁だ」という、冗談めいた名言があったが、絵画の枠取りをめぐる謎解きを読むと、冗談とばかりはいえない真実の一面が見えてきたような気がした。

 著者がいうように、絵と対峙(たいじ)するときには、「観(み)る者もそれなりの準備、心構えを要する」。画家が熟視し、練り上げたものを解きほぐし、時間をかけて追体験しなければ、絵は何も語りかけてこない。しかし、画面とじっくり対話することによって、奥深い世界が見えてくる。本書ではその優れた手本が示されている。
    −−「今週の本棚:張競・評 『名画に隠された「二重の謎」』=三浦篤・著」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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