「文字ではなく私の精神(ガイスト)を聞いて欲しい」……ってほど大げさではありませんが
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私は1949年度の東大法学部の授業で、当時、総長をしておられた南原先生の政治学史(=ヨーロッパ政治理論史)を受講しました。幸いなことに、それは、先生にとって最終講義の年に当たっていたのでした。それまで、いっこうに法学部の勉強になじみを覚えていなかった私は、南原先生の講義内容に強く引かれるものがありました。その後、ヨーロッパ政治思想史を専攻する研究者の道を歩むことになったのも、この時の出会いがきっかけとなったのでした。
先生の講義は、小さなメモを手にされながら力強い口調で学生たちに訴えかけるもので、さながら総長演説のような趣がありました。ノートをとることに追われる学生たちをたしなめて、くり返し、「文字ではなく私の精神(ガイスト)を聞いて欲しい」と求められたのです。いまにして思えば、それは、「文字は人を殺し、霊(ガイスト)は人を生かす」(IIコリント三・六)というパウロの言葉につながるものだったことに気づかされます。ヨーロッパ政治思想史を貫くキリスト教の《精神》と国家の《権力》との緊張関係をはらんだ展開の歴史から、主体的に学ぶことを教えておられたのです。
−−宮田光雄「『国家と宗教』との出会い」、『国家と宗教』岩波書店、2010年、523−524頁。
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さて……。
17日(木曜日)の授業にて、本年度は最終講義。
結局、もっと突っ込んでやらなければならないところはごまんとあるのだから、やらせてくれというのが正味の話なのですが、制度としての教育はそれを容認できるわけでもありませんから、
「これにて、ごめん」
……というわけでホント、申し訳ございません。
本日は、誰の思想がどうのだとか、誰が何をどう解釈しているとか、という話は抜きにして、哲学の根本的なテーマである「人間とは何か」について突っ込んで話をさせて頂きました。
これも何度も言及している話でありますが、哲学を学ぶとは、「人間とは何か」という未完のプロジェクトの“完成の未完成”、そして“未完成の完成”を生涯にわたって遂行していくという難事。
しかし、そういう難事を避けて、テケトーに「まあ、それはそういうもんだよね」と認識において蓋をするのが、生活であり既製の権威化した学問や知識ではないかと思います。
そういうことにどこまでも抗う、常にに“完成の未完成”、“未完成の完成”をめざす、諸君、そしてわたしでありたいと思います。
ぐだぐだと後期も15回の授業を続けてきましたが、大事なことを、自分が確認した訳でもない出来合のなんちゃらで判断して「それでよし、OK」とするようなことだけはないでほしいと思います。
それこそが「人間とは何か」を探究することなのではないと思いますしね。
ともあれ、皆様、ありがとうございました。
……って来週は、試験ですよね。
ホント、試験して「その人に哲学の力があるのかないのか」なんて一寸もわかりゃアしねぇのに、ほんと、世の中は、本末転倒してますね。
……って、だからといって世の中爆発しろ!!!っていうのは哲学することではありませんし、「そーゆうものが世の中なんだよね」ってセルフ慰めするのも違いますからね。
……って、
ともあれ、皆様、ありがとうございました。