ボールペンで残された思索の軌跡




そういえば、大人になってから、ほとんど鉛筆やシャープペンシルをつかっていないことに気がついた。

思い返せば、たぶん、高校時代ぐらいから鉛筆やシャープペンシルよりも、ボールペン(水性・油性を問わず)を使う比率が高くなったように思う。

もちろん、筆記試験に代表されるように、書き直しが必要な事柄については、鉛筆のたぐいを使っていますが、どこかに提出したりする必要のないものなんかは、それが「書き直し」を要するものであっても、ボールペンでほとんどすませるようになった。

もっとも、ボールペンでも「書き直し」はします。しかし、鉛筆の場合と違って消しゴムで消したりはしないから、「書き直し」の経緯は残ってしまう。

手帳に認める予定の変更のような案件については、ぐじゃぐじゃっと塗りつぶしてしまうこともありますが、自分はひょっとすると「書き直し」の「経緯」を大事にするためにボールペンを使っているのではないかと考えたりもする。人間の思索がどう変化していくのか。

何をどう訂正していくのか。ひとつの記録をボールペンで消えないように残しているのではないだろうか、と。

「そんなん、考えすぎですよ」と言われればそれまでだし、ボールペンの方が楽だからと言えば否定できないけれども、消しゴムで経緯を消しさり、模範解答集と一言一句たがわないものをコピペすることへの、それはささやかな抵抗なのではないだろうか、と考えすぎたりするのですが、みなさまはどうですかね?

たまには、こんなことを考えてみたりもします(笑









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