書評:三浦瑠麗『シビリアンの戦争 デモクラシーが攻撃的になるとき』岩波書店、2012年。





戦争を始めるのは軍人だ……「軍の暴走」に対する懸念は、歴史に対する反省からの知恵であり、デモクラシーの政軍関係の基本である。しかし本書によれば、どうやら実態は必ずしもそうとは限らない。軍人よりも文民が戦争を欲している。

本書はクリミア戦争からイラク戦争までさまざまな事例をとりあげ綿密に分析する。真っ先に死ぬのは軍人だ。勝算のない戦などやりたくない。研究のきっかけはイラク戦争だという。イラク戦争とはまさに「シビリアンが推進し、また軍人が反対する戦争」である。著者の指摘には驚かされるが、タカ派政治家の言には枚挙暇がないことを想起すれば、「軍の暴走」が全ての戦争の原因とは限らないことは明らかだ。

勿論、現実に軍人が推進する場合もあるし、文民統制が機能する場合もある。しかし文民統制という構造があれば「何も考えなくても安心だ」というのは早計なのだろう。ややアクロバティックではあるが、著者は、軍務の負担を国民が共有することに一つのヒントを見出す。

勿論、軍が全て平和的、シビリアンが常に攻撃的と仮定すること自体(その逆も含め)、思考停止であり、人間論としては、人間を抽象化させる立場(ヤスパース)の最たるもの。「想像力の翼」を広げることが必要か。常識を塗り替え、出発点に引き戻す一冊。



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 本書の執筆を終えての所感も記しておきたい。執筆を通して、あらためて、人間であれば誰しも「ダークサイド」を持っているというだけでなく、善意であっても結果的に害をなすことがあり、他者の苦しみに驚くほど冷淡になれるということを考えさせられた。戦争に関して、例えば被占領者の悲しみ、または兵士の苦しみ、あるいは指導者の後悔のいずれかに共感することは比較的簡単にできる。しかしその一方で、そのほかの人々の苦しみをいとも簡単に無視したり軽視したりしてしまうことができるのだ。その意味では、本書は自分の配下の兵士を、過酷な、かつ自分の信じていない戦いに送らざるを得なかったエリート軍人や、前線に送られた兵士の父母などに共感を寄せている分だけ、ほかの人々の苦境を軽視しているという批判を受けるかもしれない。だが、軍人の苦しみが真のものではないとは、誰にもいえないだろう。誰かを糾弾することはたやすいが、対立する立場の双方を理解し、共感を寄せることがいかに難しいことか。同じことは日本の左右陣営の対立にも言える。われわれは、ヒューマニズムと想像力の翼をもっと広げる努力をしなくてはならない。
    −−三浦瑠麗『シビリアンの戦争 デモクラシーが攻撃的になるとき』岩波書店、2012年、255−256頁。

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