2.10新大久保デモを拝見して。「『フツー』としか形容する以外にない」「あなたの隣人」が「死ね」とか連呼する日常世界



        • -

 在特会に「思想」は存在しないし、その活動は「レイシズム」以外の何ものでもない。言葉の暴力をためらいもなく浴びせるが、しかし、彼らは特異な人々ではない。「『フツー』としか形容する以外にない」「あなたの隣人」なのだ。著者の指摘に留意しつつ、評者は哲学者アーレントの「悪の陳腐(ちんぷ)さ」という言葉を想起した。ユダヤ人大量殺戮(さつりく)を指揮したナチの戦争犯罪人の裁判に臨んだ彼女は、被告人が典型的な極悪人ではなく「普通の人々」であることに注目した。「人の良いオッチャンや、優しそうなオバハンや、礼儀正しい若者の心のなかに潜(ひそ)む小さな憎悪が、在特会をつくりあげ、そして育てている」。

 彼らの罵声(ばせい)と苛立(いらだ)ちの気分は別の世界に実在するのではない。「私のなかに、その芽がないとも限らない」。目を背(そむ)けることのできない戦慄(せんりつ)すべきルポルタージュである。

    −−拙文、安田浩一『ネットと愛国』(講談社)、『第三文明』2012年8月、第三文明社、92頁。

書評:安田浩一『ネットと愛国』(講談社)、『第三文明』2012年8月、第三文明社、92頁。 - Essais d’herméneutique

        • -


昨日の日記にも少し書いたが、9日、排外主義のレイシスト集団・在特会が東京の新大久保で「死ね、死ね」と罵声を上げつつ示威行動を行った。10日の今日も開催されるということで、その現場に臨むことにした。

参加するわけでもないし、挑発しようというのでもない。しかし、その空気を感じることは大事だと思ったからだ。仕事の都合で途中までの「目撃」になったが、なんともいいようのない一日になった。

それが幾重にも入り組んだ入れ子構造の上に成立する「マジョリティー」の「まなざし」であることは重々承知しているし、私自身に罪責性が存在することも理解している。

加えて、言説を全体に回収することこそ唾棄すべきことは分かっているけれども、その日その時「見た」ことは、今の日本の現実だから、その印象を「記録」として残しておく。

※ちなみトゥぎゃりのまとめは以下
拉致被害者をだしにして新大久保で「叩き出せ!」「叩き潰せ!」と大騒ぎする自称愛国者御一行様(2・10) - Togetter

15:00ちょっとまえ、歌舞伎町はずれの公園に集団が集合し、注意事項を周知していた。今回は、首都圏反原連のしばき隊を「意識」してゆえか、「こちらからは手を出すな。手をだされたら、正当防衛でやりかえせ」との話。

しかし、それちゃうやろ。

そして昨日の反省ゆえか。今回は、「北朝鮮による拉致被害者を返せ」を全面に掲げ、示威行動が開始された。

しかし、横田めぐみさんのご両親が、苦慮していたように、それはイコール在日コリアンのひとびとに直接的・構造的暴力を繰り返すことで達成されるものではないことはいうまでもないのだが、彼らの行動をみていると、結局は自身の承認欲求を満たすためには(そしてそれだけではないでしょうし、ルサンチマンも大きく要因しているのでしょうが)、「拉致被害者」までも「手段」として「動員」「利用」するということに浅ましさを感じてしまった。

さて、エールを繰り返す初老の女性主導者のかけ声に合わせて、

北朝鮮に国軍を派遣して被害者の奪還を」
スパイ防止法の成立を」
「安倍政権を支持します」

などなどの「スローガン」が連呼されてる。

しかし、その合いの手を打つように、

「出ていけ」
「死ね」
「はげはげ」
「でてこいやー」

などなど。

途中でハングルの罵倒もあった。何をいっているのか分からないけど、その後の「解説」のようなもので「日本語で表現できない汚い言葉です」・・・・と続く。

大久保通りを早稲田方面から攻め、仕事の時間ぎりぎりまで、追跡し、JR新大久保駅で離脱。

その日は、13:00過ぎに知人と集合して、新大久保の街へ。
降りて、遊山するのは10年以上ぶりでしょうか。街がかつての陰鬱さがなくなり、かわって華やかさに包まれていたのに驚いた。

そして休日のせいもあり、楽しむひとたちで街は「笑顔」であふれていた。昼食を焼き肉やさんでとってから、くだんの示威行動を追跡したわけですが、もはや「示威行動」というよりは、「犯罪」そのもの。

彼らが通り抜けるたびに、町は凍り付いていった・・・。

ヘイトスピーチ表現の自由以前のものだと戦慄した。

途中離脱ですが、経緯を列挙すると以上の通り。

さて・・・

昨年の夏に安田浩一さんの『ネットと愛国』(講談社)の書評を書いた。そこで僕は、うえのように書いた。

ハンナ・アーレントとは『人間の条件』『全体主義の起原』で名高いユダヤ人の女性思想家だ。アーレントで有名なのは、そしてその評価を二分する「事件」といってよいのが、アイヒマン裁判の傍聴記録といってよい『イェルサレムアイヒマン』だ。

ユダヤ人絶滅作戦を指揮したアドルフ・アイヒマンが戦後20年近く経て逮捕されたとき、世界は戦慄し、そして落胆した。

アイヒマンは「極悪人」でなければならなかった。しかし、逮捕されたアイヒマンは命乞いを請う「小男」に過ぎなかったからだ。

アーレントは端的に「悪の陳腐さ」と表現した。「小男」であろうが「大量殺戮」に手を染めたことは間違いない。しかし、その「小男」であることを一見すると「あざ笑う」かのように筆致したアーレントに対して、数々の難癖をつけたのは、ユダヤ人が多かったという。

アーレントが描いて見せたのは何だろうか−−。

確かにスターリンヒトラーのような「凶人」がなすべきことをなすのは世の常であろう。しかし、それ以上に、そうしたものごとを対象化してしまう「ふつうのひと」もそれ以上のことをなし得ることを喝破したといってよい。だから「陳腐」なのだ。

さて、日本では、このアーレントの解釈を、なかば親鸞の「悪人正機」と重ね合わせて、誰もが犯すのであれば「いたしかたないんだな、人間だもの ○○を」式に流用されるケースが多い。

しかしそれこそがアーレントの「発見」を矮小化させる何ものでもない。このことは明記しておかなければならない。

対象を悪魔化して、私たちとは関係のないことがらとして、対岸の火事と決め込むことこそ、負の連鎖を増幅させることのトリガーになる。と、同時に、誰もが成し得るから「免罪されてしかるべき」も同じであろう。

私もあなたも犯しえるのであれば、言動・行動に自戒的であらねばならないし、ヘタを打ったのであれば、それを引き受けなければならないのは言うまでもない話だ。それは寛容以前の話である。

ヘイトスピーチを繰り出す人間は「悪魔」ではない。人間である。しかし同じ人間だからといって免罪されるものではない。

「悪魔化」や「無罪化」(全体への回収)は一見すると、両極端の立場のように見えてしまう。しかし、それぞれが極端な態度であるがゆえに、実は同じ要な性質をもっている。

それは何か。端的に言えば、人間を人間として取り扱わない立場だ。ヤスパースがいうならば、それは「抽象化された立場」であろう。

私は、完全な何かが正義にせよ悪にせよ先験的に実在するとはなかなか実感できない。しかし、目の前で進行していることに「眉をひそめる」だけでおわってしまう、「私たちとは関係ない頭のおかしい日本人だよね」ですませることはできない。そして同じ人間だからといっても無罪化できない。

そういうエートスを生成していくしかない。

そう再び決意する3時間であった。。。

さて、小賢しく書いてもと思うので、最後に蛇足しておきます。

ちょうどデモの様子を見ていると、いきなり殴られそうになりました。殴られそうというか、男がいきなりつっかかってくるといいますか、飛びついていくるといいますか。

その方は、デモの最中、要所要所で通行人や、様子をうかがうひとに飛びついて喧嘩をうるというか、胸ぐらをつかむようなことをしていたひとで、警察もある程度マークしていて、僕のときも、警官が制止しました。

で、最初の瞬間、何が起こっているのかわかりませんでした。何かが急に接近してくるっている認識だけの無音の世界。

それから音が回復して、状況を整理しはじめ、同行者から「氏家さん、ターゲットにされましたね」と言われて、事を理解した。

そんで、恥ずかしい話ですが、ものすごく「恐怖」を感じました。

「恐怖」ですよ、文字通りの。

彼らは、やたらめったら、「死ね」だの「殺すぞ」など連呼しては、つっかかってくる。相手が大人であろうが子どもであろうが容赦はしない。

つまり、卑近な話ですけど、僕が感じた「恐怖」が常にそこには存在し、ある意味では「野放し」にされているっていう話なんですよ。

このことは留意しなければと思います。

しかし、ほんとに、「怖かった」。

大げさかもしれませんが「死の恐怖」を感じたのは事実です。

支離滅裂ですいません。

少し雑感を書き殴りました。











102

103

104

105


106

107

108



ネット右翼の矛盾 憂国が招く「亡国」 (宝島社新書)
やまもと いちろう 中川 淳一郎 安田 浩一
宝島社
売り上げランキング: 5,051

人間の条件 (ちくま学芸文庫)
ハンナ アレント
筑摩書房
売り上げランキング: 5,167