覚え書:「今週の本棚:張競・評 『名作うしろ読み』=斎藤美奈子・著」、『毎日新聞』2013年02月10日(日)付。




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今週の本棚:張競・評 『名作うしろ読み』=斎藤美奈子・著
毎日新聞 2013年02月10日 東京朝刊

 (中央公論新社・1575円)

 ◇最後の一文から「権威」を笑い飛ばす

 日本の小説は国内だけでなく、海外でも人気を博している。だが、創作が健闘しているのに比べて、批評の方はいたって元気がない。戦後を振り返ってみると、おおよそ五年か、長くて十年おきには出色の文芸批評が必ず現れていた。その影響は文学にとどまらず、広く思想界や社会全体に及ぼすものも少なくない。しかし、この十年来に印象に残った批評が果たしてあったのだろうか。

 ところが、本書を読むと、文芸批評が時代の主旋律になるのはもはや過去の歴史になったのではないか、と思うようになった。文学が文化ピラミッドの頂点から転落した以上、批評も時代の変化に適応せざるをえないのであろう。

 本書もそうだが、斎藤美奈子の文芸批評は一貫して権威性に対する懐疑と挑発に主軸が置かれている。文学を神棚から引きずりおろすのが目的だから、「正統的」な批評の凋落(ちょうらく)はむしろ著者の望むところであろう。挑発の稜線で踊り続けられるのは、批判が揶揄(からかい)という糖衣に包まれているからだ。難解な批評を楽しい読書に変えることで、読者の歓呼に迎えられることになった。かねてから文学は商品だと主張しているから、批評を商品としてラッピングすることをあえて拒まないのであろう。

 「名作」を対象にすることに、語りの戦略が隠されている。本来、名作とは何かは難しい問題だ。出来栄えがいいことを指す場合もあるし、たんに有名な作品、売れる作品を意味することもある。いずれにせよ、人によって基準は必ずしも同じではない。価値観や審美眼が異なれば、評価もおのずと分かれるのであろう。本書ではそうしたことをとりあえず不問にし、世間一般の基準にしたがっている。そのかわり、作品の中身が果たして名作の名に値するか、とことん問い詰める。俎上(そじょう)にのせられたのは、二百年前の欧米小説もあれば、つい三十年前に発表された日本の作品もある。小説にかぎらず、詩や自伝や随筆なども含まれている。

 名作だからといって、世間の評判を鵜呑(うの)みにすることはしない。文豪であろうと、ノーベル賞受賞者であろうと、筆の誤りがあれば、著者一流の嘲笑と皮肉は情け容赦がない。ときには魔女的な哄笑(こうしょう)を浴びせることもある。いずれも勘所を押さえているから、読者もその辛口の批判に共鳴するのだろう。何よりも笑いを誘うユーモア精神には脱帽する。『妊娠小説』以来の鋭い舌鋒(ぜっぽう)はなお健在だ。

 小難しい文学理論を大上段に振りかぶらないところは心地よい。権威的な文学論から遠く離れたからこそ、文芸批評の潜在的な可能性を引き出すことができた。「うしろ読み」とはあくまでもそのための仕掛けに過ぎない。コロンブスの卵、といえばやや大げさだが、これまで誰も気づかなかった発見があったのは確かだ。上野千鶴子流の言い方をもじれば、「うしろ」にも派手な劇場があった。

 たとえば『坊っちゃん』。最後の一行から読み解くと、小説のイメージが一変した。『走れメロス』も、「激怒した」で始まり、「赤面した」で終わる点に注目すると、この退屈な作品はがぜん面白くなる。評者は林芙美子『放浪記』の瑣末(さまつ)さに辟易(へきえき)したが、著者がいう通りに「うしろ」を端折(はしょ)って読みなおすと、なるほど当時の文学界にとって爆弾的な効果があったことがよくわかるようになった。

 一作につき、原稿用紙わずか三枚弱の短いものだが、虚飾的な文芸批評より遥かに面白くて肯綮(こうけい)に当たっている。
    −−「今週の本棚:張競・評 『名作うしろ読み』=斎藤美奈子・著」、『毎日新聞』2013年02月10日(日)付。








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