覚え書:「今週の本棚:山崎正和・評 『子供の哲学−産まれるものとしての身体』=檜垣立哉・著」、『毎日新聞』2013年02月17日(日)付。




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今週の本棚:山崎正和・評 『子供の哲学−産まれるものとしての身体』=檜垣立哉・著

毎日新聞 2013年02月17日 東京朝刊

 (講談社選書メチエ・1575円)
 ◇近代的自我を超える生殖の観点

 近代の哲学は自我の存在、あるいは自我の意識を原点として世界を考えてきた。「われ思う、ゆえにわれあり」のデカルト以来、二十世紀初めのベルクソンフッサールまで、意識する自己は疑いえない存在であり、万人に普遍的であって、生まれも死にも変化もしない恒常的な存在と見なされてきた。

 だがこれはおかしいのではないか、という素朴だが革命的な疑問を掲げて著者はこの本を書いた。人間の自己は親から産まれ、みずから子を産む身体に伴われ、意識もまた産まれて死ぬ存在であるのは自明ではないのか。この疑問から、自我を断続するいのちの流れのなかに置き、生殖する身体と不可分の存在として捉える、新しい哲学の試みが始まるのである。

 一方、いのちの流れを思考の原点に置くことは、哲学者にとっては逆の疑問に直面することを意味する。その流れから個別の自己がどのように生まれ、「私」という主体の感覚がいかに生じるのかという問題である。著者はこれに答えるべく哲学史を渉猟し、M・アンリ、ハイデガー西田幾多郎、E・レヴィナスなどを読んで独自の解釈を加える。

 読解はそれぞれに新鮮で面白く、とくに西田とレヴィナスベルクソンに同じ批判を加えていた、という指摘にはわが意を得た。ベルクソンの純粋持続、生の飛躍という観念には断絶の契機が含まれておらず、死と再生の意義が看過されていたというのだが、私もかねて同じ不満を抱いていたからである。

 精緻な先人批判を通じて著者はしだいに自己への懐疑を深め、ついには自己を「子供への愛」に還元しようとする。人はだれでも子供を可愛がるが、それは未来の人類、生殖の絆、すなわちいのちの流れそのものへの愛である。そして個人の「私」はこの愛の主体として、内にこの確実な情動を感じるかぎりにおいて、存在の証明を得られるという。

 自己の実在を情動に求めるのは先例があって、著者が踏まえているのは、M・アンリがデカルトの命題に修正を加えた論理だった。アンリは確実なのは「われ思う」という事実ではなく、「われ思うと思われる」という情動だと主張した。情動は身体的な現象であって、心身二分以前の経験だから確実だというのが、アンリと著者の見解なのである。



 身体を重視するのは現代哲学の趨勢(すうせい)だが、従来の心身相関論はどこまでも自己の意識を超えないものであった。あのメルロ=ポンティでさえ基本的に、身体を「私が持ち、私である」存在として捉えていた。そこに生殖する身体という契機を導入し、自己を断絶を孕(はら)んだ存在として見直そうとするのは、画期的で刺激的な転換だというべきだろう。

 画期的な発想は当然、読む者に多くの疑問と、敷衍(ふえん)への欲求を触発する。以下は著者への批判というより、今後の私自身の思索のメモとして記しておきたい。問題は、もし自己の概念をここまで脱構築するのなら、なぜそれをいのちの枠内に留(とど)めるのか、なぜ身体を生物学の範囲に限定してしまい、もっと広い視野のもとに置かないのかということである。

 なぜなら光や音、温度や空間の広さなど、純粋に物理的な現象も認識以前の気分に浸透してくるし、文化的慣習も直接に身体の能動性を形成している。何より知の最高の現れというべき発明や発見は、マイケル・ポランニーが「創発」と呼んだように、意思とは無関係に偶然のかなたから湧きだしてくるとしか考えられないからである。
    −−「今週の本棚:山崎正和・評 『子供の哲学−産まれるものとしての身体』=檜垣立哉・著」、『毎日新聞』2013年02月17日(日)付。

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