覚え書:「書評:東北発の震災論 山下祐介著」、『東京新聞』2013年4月21日(日)付。




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東北発の震災論 山下 祐介 著

2013年4月21日

◆新たな「主体性」を思い描く
[評者]赤坂 憲雄 学習院大教授・民俗学。著書『東北学/忘れられた東北』など。
 3・11から二年余りの歳月が過ぎた。東京ではすでに東日本大震災は過去に属しているかのようだ。被災地はしかし、今も復興以前の現実にあえいでいる。たしかに、膨大な予算がつぎ込まれているらしい。それはしかし、3・11以前へと復旧させるための公共事業であり、将来を見据えた創造的な復興といったものではない。三陸海岸や福島の被災地を歩きながら、著者は東北の近代化の構造を洗い直し、東北から見えてくる東日本大震災の姿を浮かび上がらせようとする。
 日本社会は広域にわたって形成された一つの巨大システムをなす、と著者は言う。原発はまさにこの「広域システム」のシンボルのようなものだ。それはつかの間、東日本大震災によって揺らいだが、あらゆる人やモノや場所から「主体性」を奪い「周辺化」することで存続を果たした。周辺はリスクを背負い、還流してくるいくらかの利益と引き換えに中心に奉仕する。この中心と周辺というシステムの根幹は事後も揺らぐことはなかった。東京という中心からは、周辺たる東北の被災地は見えない。それでいて、復興のシナリオは東京で作られ、被災地に降りてくる。それはしかも、有機的な全体像も将来への見通しも持たないままにゆるく周辺を覆い尽くしてゆく。
 この広域システムの際限のない拡散と合理化に抗する知は、どこから生まれるのか。個と全体のあいだに、バラバラな社会の隙間に、論理的には説明しがたいかたちで顕われる大地の区画のなかで「くに」として析出するものと言う。とてもきわどい物言いだ。
 「くに」とは近代の国民国家ではむろんなく、何か、古風にして、いまだ見たことのない共同体のようなものであり、そこに新たな「主体性」の誕生が予感されている。東北はその実験場として再生しなければならない、という最後の呟(つぶや)きに、もどかしくも共感を覚える。
やました・ゆうすけ 1969年生まれ。首都大学東京准教授。著書『限界集落の真実』など。
ちくま新書・924円)
◆もう1冊 
 太宰幸子『地名は知っていた』(上)(下)(河北新報出版センター)。宮城県の被災地を歩き、伝統的地名が語る災害伝承の重要性を考える。
    −−「書評:東北発の震災論 山下祐介著」、『東京新聞』2013年4月21日(日)付。

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