覚え書:「今週の本棚:養老孟司・評 『建築家、走る』=隈研吾・著」、『毎日新聞』2013年05月19日(日)付。




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今週の本棚:養老孟司・評 『建築家、走る』=隈研吾・著
毎日新聞 2013年05月19日 東京朝刊

 (新潮社・1470円)

 ◇「場所」と「身体」を鍵に、自らの軌跡を語る

 今年四月、新歌舞伎座がオープンした。その建築を手がけたのが本書の著者、隈研吾。それならこの本は、新歌舞伎座の竣工(しゅんこう)を機に、急ぎ著者インタビューをして作り上げられたものか。

 それはまったく違う。たしかに聞き書きでまとめられた本なのだが、完成までに足掛け五年を経ている。いわば周到に準備された「現在の隈研吾」の紹介なのである。

 京都・下鴨神社には著者設計による「現代の方丈」庵がある。昨秋そこで著者と対談する機会があった。「昨日はどこでしたか」「マケドニア」。「明日はどちらへ」「中国」。わざわざ世界中をそうして走り回っているわけではないと思う。なぜだか知らないが、そうなってしまった。それが正直なところに違いない。国際的というのは、つまりそういうことなのである。

 半自伝的に自分の過去を語りながら、現在のさまざまな仕事の局面に触れる。語り口は平易で、読みやすく、一気に通読できる。そこでの鍵となる言葉が二つある。私はそう読んだ。それは「場所」と「身体」。建築という表現の前提は場所である。当たり前だが、場所を無視して建築はない。その中を動くのは身体。著者は身体性を重視する。

 これはむしろ無意識と言い換えるべきかもしれない。われわれは身体を「知っているつもり」だが、それはじつは「脳の中の幽霊」である。つまり自分が意識している身体は、実体を伴っていない。いわば幽霊のような仮構なのである。

 場所と身体には、一つ共通点がある。それは「個」であって、唯一無二、取り替えがきかないということである。ところが現代社会は、そうした個を無視する。いや、そんなことはない。近代こそ、個を中心に置いてきたではないか。

 まさにそこが問題なのであろう。個が中心だという意識的な前提を置けば、世間は逆に一般化、普遍化するに決まっている。それぞれが自分は個に決まっていると思っているのだから、「安心して」社会は一般化をいわば強制できる。それが現代人の生きにくさに通じている。

 著者はそれをよく知っている。私はそう思う。半自伝の部分で、著者は米国留学について語る。でもそれは「箔(はく)をつける」ようなものではない。ニューヨークで図書館に通い、畳を二畳注文する。あとは日本の現代建築批判。つまり世間に対してひねくれていただけである。

 帰国して十年間、地方での建築活動に専念する。東京では「干された」からである。世間から疎外されたのか、あるいは世間を疎外したのか。疎外した世間に戻ったときには、その世間を自分のなかに包摂するしかない。そういう風に人は育つ。外から見る人はそれを成功と呼び、出世物語と見るかもしれない。でもおそらく、自分との大きな折り合いがついたのだと、私は思う。

 そうなればそのまま世界に通用する。日本という世界を思い切って飲み込んでしまえば、あとは世界のどこに行こうと、同じことだからである。いますぐに理解できるか否か、それはともかく、現代の若い世代にぜひ読んで欲しい本である。建築という表現形式は、世間という一般と自分という個とが、直接にぶつかり合う、強い緊張関係の世界である。その緊張関係をいかに清々(すがすが)しく過ごしていくのか。それだけの力量を持つ人たちが、戦後日本の建築界から輩出した理由が知りたい。本書を読んで私はそう思った。
    −−「今週の本棚:養老孟司・評 『建築家、走る』=隈研吾・著」、『毎日新聞』2013年05月19日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130519ddm015070003000c.html




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建築家、走る
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