覚え書:「今週の本棚:中村桂子・評 『鼻の先から尻尾まで−神経内科医の生物学』=岩田誠・著」、『毎日新聞』2013年06月09日(日)付。




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今週の本棚:中村桂子・評 『鼻の先から尻尾まで−神経内科医の生物学』=岩田誠・著
毎日新聞 2013年06月09日 東京朝刊

 (中山書店・2940円)

 ◇医療現場発「観察と洞察」の面白さ

 神経内科は、全身の神経系を対象とするので、「頭の天辺(てっぺん)から足の裏まで診察する科」と思ってきた岩田先生、近年その間違いに気づく。脊椎(せきつい)動物の先端は鼻、最後尾は尻尾(しっぽ)なのだ。四つん這(ば)いになってみると実感できる。先生の診療の基本は問診と診察、体に刺激を与えての反応の観察である。

 観察は日常にも及び、洗髪後鏡を見ながら(なけなしの髪とあるが、それはどうでもよい)片目をふさぐと反対側の瞳孔が拡(ひろ)がることに気づく。瞳孔の大きさは明るさにより変化することはよく知られているが、そこでは両目に入る光量の和が効いているのだ。片目を閉じれば当然入力は減る。体験を生かす医師の教育をと願って、これを授業で用いると学生は驚いて体に関心を示すとのことだ。

 これは「目玉の不思議」であり、このような観察と洞察が30話並んでいる。どれも専門知識と日常の眼が合体した面白さがある。「片頭痛は脳の病気?」には、突然の頭痛にこれで頭を縛るようにとデスデモナにハンカチを渡されるオセロが登場する。片頭痛は、拡張した動脈が三叉(さんさ)神経を引っ張って起こるので、縛って血流を減らすのがよいと説明できる。最近、動脈拡張の原因は三叉神経が炎症誘起物質を放出するためとわかり、原因遺伝子も見出(みいだ)された。ショパン片頭痛に苦しんだ一人で、ピアノ・ソナタ第2番は第1楽章で予兆、次が恐怖、第3楽章の葬送行進曲は痛みに耐えるしかない諦め、第4楽章は脱力感と混迷だというのが岩田説だ。そう思って聴いてみよう。

 「“むせ”れば安全」も紹介したい。人体で最もスリルに富んだところは「咽頭(いんとう)」だとのこと。気道と食物道が交差する咽頭が、人間では言葉を話す能力と引き換えに誤嚥(ごえん)を起こす構造になり、窒息の危険を抱え込んだ。これを避けるのが“むせ”である。高齢者の死因として多い肺炎は、唾液が気道に入っても、むせて咳(せき)で追い出せなくなり、唾液中の細菌が肺に入って起こる。高齢になって咳ばらいができなくなったら要注意である。医師でも肺炎の原因は食物の誤嚥とし、経口摂取を止(や)めればよいとする人がまだ多いが、それは違うとの指摘になるほどと思う。

 患者の観察、解剖学で得た知識、生物進化への興味、芸術への関心などがみごとに混じり合った医師像が見えてくる。近年医学が科学技術化し、最先端科学と医療機器こそ最良の医療への道とされるが、現場でありがたいのはこういう医師の存在ではなかろうか。科学的知識は重要だが、診察し、判断し、治療するのは人間であることはいつの時代も変わらない。

 ところで岩田医師が「神様の失敗」とする人体部分が四つある。頸椎(けいつい)、鼠径(そけい)輪、肛門の周りの静脈叢(じょうみゃくそう)、腰椎である。頸椎症、鼠径ヘルニア、痔核(じかく)、腰椎症に悩む人は確かに多い。頸(くび)は重い頭に耐えかね、腹筋の裾が閉じていないので内臓がはみ出し、イキむと肛門の周囲に血液が集まり、腰も体重を支えかねている。人間が立ち上がったために起きた問題である。頸椎も腰椎も動くようにと椎間板が入っているが、年と共につぶれて弾力を失ないちょっとしたことで椎骨からはみ出す。椎間板の耐用年数は40年とのこと。それなのに私たちはテニスで腰をひねり、車をバックさせようと頸をまわし、椎間板をこき使う。ここで岩田先生敢然と反スポーツキャンペーンを張る。「担ぐな、ひねるな、反るな、屈(かが)むな」と。オリンピック招致キャンペーンとどちらに分があるか国民投票も面白いかもしれない。
    −−「今週の本棚:中村桂子・評 『鼻の先から尻尾まで−神経内科医の生物学』=岩田誠・著」、『毎日新聞』2013年06月09日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130609ddm015070036000c.html




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