歴史を学ぶとは、私たちがもっている認識を改めていくことなのではないか

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『新しい歴史教科書を作る会(作る会)』がレイシスト集団『在日特権を許さない市民の会在特会)』と一緒に 「捏造!従軍慰安婦」展なるパネル展の協賛団体に名を連ねている……。

http://myosaka.blog.fc2.com/blog-entry-592.html

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というニュースを拝見したので、レビューというよりも、読んで感じたことについて少々。そもそも両方とも終わりやないけ、と言ってしまえばそうなのですが、「歴史を学ぶ」という意義から、twのまとめですが少々。。。


ちょうど、A・ゴードン『新版 日本の200年』(みすず書房 A・ゴードン『日本の200年』[新版] | トピックス : みすず書房 )を読み終えたせいかもしれないが、ユニークさを強調するあまり、他の時代や地域の人々と全く関係がないと「錯覚」して「自尊」することはかえってユニークさを損なうことになるのではないだろうか。

そして思い返すのは、やはりゲーテの言葉。「個々の人間、個々の民族の特性をそのまま認めながらも、真に誉むべきものは全人類に属することによってこそきわだつのだという確信を失わぬようにしてこそ、真に普遍的な寛容の精神が最も確実に得られる」との一節(ゲーテ(小栗浩訳)「文学論・芸術論」『世界の名著38』中央公論社、1979年)。

鎖国徳川時代ですら、諸外国との交流の中でその政治史、社会史、経済史、文化史が形成されてきた。近代日本200年の歩みとは広汎な世界の近現代史と密接不可分である、とゴードンは指摘する。普遍と個別は「相互連関性」によって成立する。経緯を振り返る新しい視座のひとつとなろう。


さて、そのA.ゴードン『日本の200年』みすず書房「日本語版へのまえがき」で興味深いをことを書いているのでご紹介。1990年代の末、アメリカのアジア学会の会員に「新しい歴史教科書を作る会」からパンフレットが送られてきたそうな。

いわく「それぞれの国は他の国々とは異なる独自の歴史認識をもっている。さまざまな国が歴史認識を共有することは不可能である」。はたしてそうか−−。共通了解を目指すことの重要性は、すべからく同じだと主張することとは違う。

ユニークさを強調し神秘主義に傾くのでも、うすっぺらい作業仮設を設定することでもない。大切なことは、一見すると固有の神秘的な本質に見えることが、どのように循環し、変遷をとげたかを跡づけるということが歴史家の責務ではないかという話。その意味で、歴史修正主義は閉じた社会の独言といっても過言ではない。

結局、歴史を学ぶとは、私たちがもっている認識を改めていくことなのではないかと思う。

E・H・カーは、名著『歴史とは何か』(岩波新書)のなかで、「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」と述べていますが、対話をすることで自己認識と他者認識が一新される。歴史を学ぶとはかくありたいものです。

ともあれ、日本人の研究者であっても、200年とはいえ、通史を著わすことに躊躇する現在。A.ゴードン『日本の200年』みすず書房は、おすすめです。

ちなみに旧版(2008年以降の経緯の増補前)の書評。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/442pdf/04-01.pdf 『立命館産業社会論集』 44巻2号。











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