覚え書:「今週の本棚:渡辺保・評 『京舞井上流の誕生』=岡田万里子・著」、『毎日新聞』2013年06月09日(日)付。




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今週の本棚:渡辺保・評 『京舞井上流の誕生』=岡田万里子・著
毎日新聞 2013年06月09日 東京朝刊



 (思文閣出版・9450円)

 ◇「都をどり」に息づく文化・風俗の歴史を活写する

 「都をどりは、よいやさァ」

 大勢のかけ声で両花道へ揃(そろ)いの衣裳(いしょう)の芸妓(げいぎ)たちが並ぶ。花見に賑(にぎ)わう京都の春の風物詩、祇園の「都をどり」の幕開きである。私は子供の頃にこれを見た。私にとってはじめての芸能体験だったから忘れられない。

 「都をどり」は明治五年(一八七二)第一回京都博覧会の余興として、京都府参事槇村正直祇園の茶屋一力の主人杉浦治郎右衛門と、今日京舞と呼ばれる舞踊井上流の家元三代目井上八千代によってつくられた。以来百四十年余り。今日まで続いている。

 京舞井上流は、初代八千代から現五代目まで、日本舞踊のなかでも独特の表現を持つ一派である。しかしなぜこういう一派が生まれたかは、井上家に伝わる伝承以外あまり明確でなかった。岡田万里子はその伝承を膨大な史料によって検証し、客観的にその歴史を描いている。

 構成は二部に分かれている。

 第一部は初代、二代目、三代目の三人の八千代の人生を描く。

 初代は書家であった井上敬輔の妹。京都の文化人サロンに育ち、近衛家に奉公した。近衛家には王朝文化の伝統とさまざまな芸能者の出入りがあり、その影響を受けた彼女は、近衛家を辞した後、舞の師匠、振付師として独立、井上流を創った。嘉永七年(一八五四)八十八歳で没する。

 二代目は兄敬輔の娘。初代につづいて能や文楽の人形の手法を取り入れ、慶応二年(一八六六)にはじめて名取を出し流派としての基盤をきずいたが、その後、七十四歳で没した。

 三代目は二代目の継承者。すでにふれた通り「都をどり」をつくり、昭和十三年(一九三八)百一歳で没した。

 江戸後期から昭和まで、三人の波乱の人生が活写される。

 第二部は井上流独特の表現に影響を与えた当時の上方の遊里の踊り、能の金剛流の町方の能楽師で、京都を代表する名手野村三次郎、文楽人形遣いで、早替わりや宙吊(づ)りを得意にした吉田八蝶と吉田千四・兵吉父子、そして上方歌舞伎の舞台を描いて、今日井上流に残る作品の内容を検討している。

 その結果、当時の遊里では祇園町に限らず「舞さらえ」という大舞台での上演や祭礼に行列を作った「練り物」が行われ、街路で芸妓のページェントがあったことが描かれている。名古屋まで興行に出張しているのである。上方舞というと私たちは燭(しょく)台(だい)の灯の瞬く座敷の静かな舞だけを想像するが、それだけではなかった。そしてそういうなかで彼女たちは驚くべきことに能や狂言を演じ、人形浄瑠璃はもとより歌舞伎まで演じていたのである。しかもそれらの素材を自由に脚色していた。能の部分に艶っぽい男女の恋の唄が入っていることなど朝飯前だった。

 井上流の一種独特な無表情な、機械的な舞の動作、能から浄瑠璃までを自由に脚色した作品は、このような背景から生まれたものである。しかし今でこそ特殊に見えるその様式、作品も当時はごく一般的であり、にもかかわらず今日井上流にだけ残ったのは、井上流が祇園に定着したこと、もう一つは明治維新の近代化のなかで女紅場(にょこうば)という学校組織(それも祇園独特ではなかった)を今日までうまく運営して後継者の育成、遊里全体を統率したためであった。

 岡田万里子はこれらの事実を実証した。それが可能になったのは文化全体の流れをとらえる視点があったからである。その意味で本書は文化史であり風俗史として画期的である。多少専門的ではあるが、歴史のなかに浮かぶ人生や時代の風景はさながら小説や史伝を読むが如(ごと)くイキイキとして、私は大いに想像力を刺激された。
    −−「今週の本棚:渡辺保・評 『京舞井上流の誕生』=岡田万里子・著」、『毎日新聞』2013年06月09日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130609ddm015070023000c.html


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