覚え書:「今週の本棚:富山太佳夫・評 『暮らしのイギリス史−王侯から庶民まで』=ルーシー・ワースリー著」、 『毎日新聞』2013年06月16日(日)付。




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今週の本棚:富山太佳夫・評 『暮らしのイギリス史−王侯から庶民まで』=ルーシー・ワースリー著
毎日新聞 2013年06月16日 東京朝刊


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 (NTT出版・3780円)

 ◇ネタ満載の学術書で味わう、散歩的な楽しみ

 本を読むというのは一体何のためなのだろうか。新しい知識を得て、何か新しいことを考えるためだろうか。それとも、散歩か何かのように、あれこれを見て楽しむためだろうか。勿論(もちろん)、ひとによって、時によって、違うかもしれないが。

 そんなことを考えながら、この『暮らしのイギリス史−−王侯から庶民まで』という力の抜けるようなタイトルの本を手にする。目次を見ると、寝室、浴室、居間、台所の歴史の四つの部分に分かれている。その段階でこの本は真剣に読むような本ではないことが、まあ、大体は分かる。となると、私などはまずトイレを訪問して頭と体をすっきりさせ、それからコーヒーを同伴して、椅子にすわることになる。

 そして、パラパラとめくって出くわしたのが、「浴室の歴史」の中の「落し紙」という章。「一九九四年に実施した調査によれば、人は一日当たり平均三・四回はトイレに行き、十一・五枚分のトイレットペーパーを使用するという。トイレットペーパーという今や不可欠なトイレ備品の材質が最終的には紙に落ち着くまで、多種多様な材質が何百年にもわたり使用されてきたのである」。そう言えば、昔は「読み捨てた新聞」を利用するのは自然なことであった。

 排便処理用のトイレットペーパーを世界で初めて売り出したのは、一八五七年のアメリカ。一八八〇年代になると、イギリスでも「ブロンコ」という銘柄が生産され、「物売りによって手押し二輪車に乗せてロンドンの街を行商されていた」。官公庁で使うそれには、「盗難防止のためか……『政府所有物』と印刷されて」いたという。うーん、私はこのような歴史的事実を知らなかった。もっとも、知らなくてどうこうなるというものでもないだろうが。

 しかし、次のような事実はとなると、そうも言っていられないかもしれない。「おそらく一五〇〇年頃、社会に大変革が生じ、ほぼ二百年もの間、入浴習慣がとだえてしまう。一五四六年、ヘンリー八世の命により、ロンドンの浴場は永久に閉鎖された」。そして一五五〇年あたりから、「不潔な二百年」が始まる−−だとすると、エリザベス女王や、シェイクスピアや、ミルトンや、ニュートンはどうしたのということになってしまうだろう。

 この本には、こうしたネタを扱う章が合計四五も収録されているのだ。下着、性病、夜着、入浴復活、便所、水洗便所、月経、暖房と照明、掃除、葬儀、悪臭、冷蔵庫、食事時間、ソース、酩酊(めいてい)等々。まさしくテレビのクイズ番組などにはうってつけのネタであると言うしかないであろう。いかにもイギリス人好みのガセ・ネタ本であると言うしかないであろう。散歩的な楽しみ本である、と。

 しかし、実は、そうではない。この本は、確かにあちこちにユーモラスな文章が出てくるものの、歴然たる学術書である。カルチュラル・スタディーズの方法を使いこなしたイギリス文化史のみごとな本である。使われている歴史の史料や図版には息をのむしかない。これまでの歴史学とは違っている。しかも、著者は女性。その自己紹介によれば、「私は由緒ある王宮において、学芸員として日々の大半をロンドン塔、ケンジントン宮殿ハンプトン・コート宮殿などの公的な建造物、壮麗なカントリー・ヤードなどで働いている」。この本は、とりわけ一八世紀以降のイギリスの歴史や文化や文学に関心のある人々にとっては必読書である。(中島俊郎・玉井史絵訳)
    −−「今週の本棚:富山太佳夫・評 『暮らしのイギリス史−王侯から庶民まで』=ルーシー・ワースリー著」、 『毎日新聞』2013年06月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130616ddm015070010000c.html


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暮らしのイギリス史―王侯から庶民まで
ルーシー・ワースリー
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