覚え書:「今週の本棚:沼野充義・評 『神童のための童話集』=S・クルジジャノフスキィ著」、『毎日新聞』2013年07月21日(日)付。



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今週の本棚:沼野充義・評 『神童のための童話集』=S・クルジジャノフスキィ著
毎日新聞 2013年07月21日 東京朝刊


 (河出書房新社・2940円)

 ◇20世紀の奇想、不条理を映す「怪作」

 ロシアは奥深い文学の国だ、とつくづく思わされることがある。いまでも時折、これまで知られていなかった作家が突然再発見されるからだ。こんなに面白い作家が、鬱蒼(うっそう)たる森の奥のどこに隠れていたのだろう、とびっくりさせられる。シギズムント・クルジジャノフスキィ(一八八七−一九五〇)も、そんな風に最近、鮮やかに登場した一人である。

 少し前までロシア国内でもほとんど完全に忘れられていた名前だった。ウクライナキエフポーランド貴族の家庭に生まれた彼は、一九二〇年代、革命後の熱気さめやらぬモスクワで文学活動を始め、演劇や映画の世界にも関わった。しかし、同世代のよく似た経歴のブルガーコフとは異なり、華々しい人気作家となることはなく、生前活字にできた作品もごく僅(わず)かである。本人は「無名であることで有名」と半ば自虐的に自分のことを語っていたという。しかし、それが幸いしてか、スターリン時代の粛清の嵐を免れることができた。社会主義リアリズムの枠にとうてい収まらない「変な」作家であっただけに、もしも有名だったら、逮捕されて収容所の露と消えた可能性は高い。

 しかし、ペレストロイカ後のソ連で再発見されて再評価が進み、いまや英訳が何冊も出て、ニューヨークのインテリにも「二〇世紀最大のロシア作家の一人」などと受け止められ、ポー、カフカボルヘスカルヴィーノなどと並べられるほどになった。著作の表題だけ見ても、「さまよえる<変>」、「文字殺人者クラブ」、「未来の思い出」、「存在しない国々」と、好奇心をそそられるものばかりだ。

 今回訳された『神童のための童話集』は、主に一九二〇年代に書かれた二九編のごく短い初期作品を集めたもの(ただし生前未刊)。ドイツの哲学者ヤコービと、「恰(あたか)も」を意味するロシア語の接続詞「ヤーコブィ」が対話するという奇想天外な処女短編に始まり、神が死んだ二三世紀を舞台にした空想短編「神が死んだ」、「ある」の民と「ない」の民が織りなす神話的な寓話(ぐうわ)「無者の国」に至るまで、哲学的奇想と言語遊戯に満ちた「怪作」ぞろいで、いずれも奇妙な後味を残し、常識と日常を揺さぶるような作用を読者に及ぼす。その他、「ホンノチョットたち」「影さんの旅」「アリガト半分」など、タイトルだけを見ても訳者の工夫がうかがわれる作品が並ぶ。訳者が蘊蓄(うんちく)を傾けた異例に詳しい訳注も、原作者の博識、奇想と競い合うように見えて、楽しめる。

 じつは、この作家の紹介は今回が初めてではない。すでに『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(上田洋子・秋草俊一郎訳、松籟社、二〇一二年)が出ており、ぜひあわせて読んでいただきたいと思う。変容する部屋とそこに閉じこもる主人公を描いた「クヴァドラトゥリン」、恋人の瞳孔の中に住む小人が主人公を訪ねてくるという「瞳孔の中」、自分の肘を噛(か)むという不可能な目標に情熱を燃やす「肘噛み男」の運命を主題にした「噛めない肘」など、代表的な傑作ぞろいで、訳者、上田洋子氏による「脳内実験から小説へ」と題された解説も、この不思議な作家の全体像と特徴を見事に描き出していて、本邦初の貴重な本格的紹介になっている。

 この作家の名前、あいにく、とても発音しにくく、覚えてもらうという最初のハードルが高いが、今後二〇世紀ロシア文学の奇想と不条理な夢の歴史を語るために、不可欠の存在となることはまず間違いない。(東海晃久訳)
    −−「今週の本棚:沼野充義・評 『神童のための童話集』=S・クルジジャノフスキィ著」、『毎日新聞』2013年07月21日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130721ddm015070025000c.html





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