書評:開沼博『漂白される社会』ダイヤモンド社、2013年。
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……圧倒的に理解できない現象があった時、少なからぬ人は、「絶対悪」としてでっち上げた「理解できないもの」を過剰に批判し、過剰に感傷に浸ってみせる。理解していないにもかかわらず。「理解できないもの」を理解したつもりになり、ひたすら。 そして、溜飲を下げれば、そんな「絶対悪」など元から存在しなかったかのように忘却し、日常へと戻り、また新たな「敵」や「悲劇」、「叩いていいもの」を探し出すことに血まなこになる。 そうして、本来解決されるべきとされた問題が解決されずに放置される。
−−開沼博『漂白される社会』ダイヤモンド社、2013年、386頁。
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開沼博『漂白される社会』ダイヤモンド社、ようやく読了。本書は日本のアンダーグラウンドな世界についてのルポルタージュとその考察。「周辺的な存在」を見ないことで欺瞞の虚構は構成される(漂白される社会)が、著者は敢えて切り結ぶ。見て見ぬとは見落とすではなく、意識的に避けていることなのだ、と。
開沼博さんについては、議論が中心-周縁という二元論的表象という点、脱原発推進しの上では、結局のところ、現状容認では?という懸念から批判が多いが、僕自身は、その認識枠組みが典型的なものであったとしても受け止める必要性は充分にあると思うし、足をひっぱてるわけではないと思う。
これは、何をするにしても同じなんだけど、それがどのように完璧な「錦の御旗」なるものであっても、とにかくいてまえ!では、同じような問題は形を変えて再生産されることは必須なんだから、いけいけどんどんで、「とにかくやればいい」式ですすめてしまうとろくなことはないと思う。出発点なんだと。
なにかを進めていくと言うことは、とにかく全否定してしまえば、それが獲得できると考えたり、それを成就するためには、何をやってもよいという訳ではないんだけど、時間の経過がものすごいスピードで進む現在は、そんな悠長なことはやってられないというけど、それは必要だとは思う。
ぐだぐだいわずに、とにかくやっちまえばいい、というのもある種の思考麻痺であるし、結局の所は、とにかくやっちまえばいいとして否定の対象とされるものが禍いしたことと、それは結局の所、同じ災禍を形をかえて招来させてしまうのだろうと思う。