日記:「感動したあ」という病(やま)い


1年のうち24時間だけ、日本の一部がチャリティ熱につつまれて、地球は果たして救われてしまうのでしょうか?

……などと誰何すると、なんだテメエ、と言われそうですが、「感動したあ」乙という構造は、結局のところ、お賽銭をちゃり〜んとなげて、これで1年は安心立命・無病息災というの、心根では繋がってるような気がする。

此岸は此岸、彼岸は彼岸という何も交差しない「見せ物」社会の「感動病」、そう僕は考えている。

日本テレビの24時間テレビの問題は、ギャラや取材等々……その欺瞞に充ちた構造はこれまでに何度も批判の対象となっている。しかし、それ以上に問題なのは、受容する側の「感動したあ」消費でしょう。

ここには、「感動したの? じゃあ、そんでどうするの?」ってのが抜け落ちてる。

感動して「終わり」。そのあとは「関係ない」。感動してお金落としたから「はい、終わり」。

その視聴光景は、真夏の高校野球を冷房の効いた部屋で「やいのやいの」と鑑賞して「球児のプレーに俺は感動したよ」などといいながら、その球児の熱闘の映像に、テロップで「本日の高温情報」が流れる……そういう他人事の光景のようだ。

そもそも「愛」が地球を救うのなら、土着文化を尊重した上での世界との連携なのに(神学的立場から表現すれば「文化内受肉」の問題)、「ニッポンって…?〜この国のカタチ〜」ってテーマそのものがあくまでも文化内受肉を排他する特殊主義への固執。震災直後の「絆」よろしく、権力による排他的な連帯なんて「愛」とは無関係だろう。そんな愛は地球も日本も救うわけはない。

「金が集まっているから、結果オーライやで」って騒音を封じる言い方もあるけど、それは禁じ手だろうと思う。そもそも、この国のチャリティーは、その組織のトップが皇族で占有されるように、どこまでも上からの「ほどこし」にすぎず、問題と格闘する当事者が自強されていくこととは無関係。

弱者が弱者で有り続けなければならない前提がオカシイ。

私は精神がひン曲がっているからだけど、日本社会は所詮、全部、「ネタ」社会。ネタに「反応して終わり」ですよ。

ああ、ええ話きいたわ、みたいな、はい、それで終わり。その時だけ金だしたり、哀れんではい、終わり。8月はそういうイベントが多い。原爆もそうだし、8月15日もそう。その日だけ「感動」して終わり。あとは関係ない。

感動することを全否定するつもりはないけど、おれは、自分が感動するために……何しろ他人の不幸ほど最上の「ネタ」は他にはないわけで……そういうものがそういうままで措定され続けることに、脳天気でありつづけることはいやだよな。ただそれだけ。


( いかん、いかん、ものすげえ、ななめからみすぎて、背骨がおりまがりそうになったわいな。 )



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