日記:怒の倫理的意味



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 今日、怒の倫理的意味ほど多く忘れられているものはない。怒はただ避くべきものであるかのように考えられている。しかしながら、もし何物かがあらゆる場合に避くべきであるとすれば、それは憎みであって怒ではない。憎しみも怒から直接に発した場合には意味をもつことができる。つまり怒は憎みの倫理性を基礎附け得るようなものである。怒と憎みとは本質的に異るにも拘らず極めてしばしば混同されている、−−怒の意味が忘れられている証拠であるといえよう。
 怒はより深いものである。怒は憎みの直接の原因となることができるのに反し、憎みはただ附帯的にしか怒りの原因となることができぬ。
 すべての怒は突発的である。そのことは怒の純粋性或いは単純性を示している。しかるに憎みは殆どすべて習慣的なものであり、習慣的に永続する憎みのみが憎みと考えられるほどである。憎みの習慣性がその自然性を現わすとすれば、怒の突発性はその精神性を現わしている。怒が突発的なものであるということはその啓示的な深さを語るものでなければならぬ。しかるに憎みが何か深いもののように見えるとすれば、それは憎みが習慣的な永続性をもっているためである。

 怒ほど正確な判断を乱すものはないといわれるのは正しいであろう。しかし怒る人間は怒を表わさないで憎んでいる人間よりも恕せられるべきである。
    −−三木清「怒について」、『人生論ノート』新潮文庫、昭和六十年、52−53頁。

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文章理解の問題を解いていたら、どこかで読んだことのある文章だなーと思って、文体から三木清の著作をいくつかひっぱりだしてみたらそれでした。『人生論ノート』(新潮文庫)所収の「怒について」。冒頭部分ですが、怒りと憎しみを対比することで、怒りの(積極的な)倫理的意味について書いています。

「切に、義人を思う。義人とは何か、怒ることを知れる者である」。
ヒューマニズムとは怒りを知らないことであろうか。神の愛は人間を人間的にした。それが愛の意味。しかし、世界が人間化されたときに必要なことは怒である(神の怒りをしることでもある)。

だとすれば、そこで大切なことは何か−−。純粋性の発露としての怒りをただやみくもに退けたり押さえ込んだりするではなくして、生活に深く落とし込まれた永続性としての憎しみなのではあるまいか。そしてその混同なのではないか。

愛と怒りをただ単純に対立的概念として捉えるのではなく、怒りの倫理的意味をもう一度復権させる必要がある。

憎悪に対して憎悪で報いるのは正義ではないが、キングは「忍耐強い攻撃と、正義という名の兵器を毎日のように使って、その悪を攻め続けなければならない」(マーチン・ルーサー・キング『黒人の進む道』サイマル出版会、1968年)という。初源としての問題の指摘は、憎しみからは発しない。

しかし「突発的な怒り」に倫理的意義があり、「永続的な憎しみ」に意義がないのは何かルサンチマンを彷彿させるものがあるし、いわゆる「ヘイト・スピーチ」という言葉とその現象には、何ら倫理的意義がないことを想起してしまう。正義の告発でも何でもないという話なんですよね。








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