覚え書:覚え書:「文化 映画『ハンナ・アーレント』を観て=鈴木道彦」、『聖教新聞』2013年10月24日(木)付、ほか。
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文化
映画『ハンナ・アーレント』を観て
鈴木道彦
考える力は善悪・美醜を見分ける
ユダヤ人を絶滅収容所に送ったアイヒマン
ハンナ・アーレントは、一九〇六年にドイツに生まれたユダヤ系の政治思想家である。若いときに哲学者のハイデガーやヤスパースに学んだが、とくにハイデガーとは一時愛人関係にあったこともよく知られている。ナチの迫害を避けて一九三三年に母とともにパリへ亡命した後、一九四一年には夫とともにナチ占領下のフランスを逃れ、アメリカに再亡命する。そして以後は、アメリカを拠点とする知識人として、その著作を発表していく。
マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の今回の作品「ハンナ・アーレント」は、この波乱に満ちたアーレントの生涯全体を描くわけではない。映画はまず暗い画面のなかで、一人の男がとつぜん拉致させるシーンから始まる。これが一九六〇年にアルゼンチンのブエノスアイレス近郊で実際に行われた、イスラエルの秘密機関によるアドルフ・アイヒマンの逮捕である。
アイヒマンは、ナチ時代のドイツで無数のユダヤ人を絶滅収容所に送った部門の責任者だから、彼の名前は稀代の悪人として、ユダヤ人の記憶にこびりついている。そのアイヒマンがイスラエルに移送され、彼の戦時中の行動が裁かれることになると、アーレントは自ら志願して、「ザ・ニューヨーカー」誌に裁判傍聴記を書きたいと申し出る。
映画は、記録フィルムも交えてその裁判の様子を伝えながら、それに対するアーレントの見方、彼女の書いた記事とそれへの反響、彼女に浴びせられた批判と、彼女の対応を映し出す。このように彼女の生涯の限られた一点に絞って展開されるだけに、ここには重要な問題が集中的に浮き彫りにされている。
凡庸さの作る途方もない悪
数百万人の殺戮に荷担した以上、アイヒマンは野獣のような怪物で、ユダヤ人を心の底から憎む凶悪犯のはずである。ところがアーレントの目に映った彼は悪魔どころか、反ユダヤ主義でさえなく、ごく平凡な役人だった。彼は単なる思考不能の人物で、ナチの忠実な下僕であり、自ら手を下してユダヤ人を殺したことなどなく、ただ命令のままに熱心に移送計画を作り、その手配をした男にすぎない。
「ザ・ニューヨーカー」誌に発表されたアーレントの記事は、後に『イェルサレムのアイヒマン −−悪の陳腐さについての報告』という書物となって出版された。私がこの本を読んで深い感銘を受けたのは今から四十年以上も前のことだが、これは同時にさまざまな批判を呼んだ著作でもあった。
映画はその批判の激しさを克明に描き出している。とくにアーレントは、彼女と同じユダヤ人からも、アイヒマンを擁護しているという、とんでもない非難を浴びた。
しかし悪の凡庸さの指摘は、悪の擁護ではない。逆に凡庸で考える力がないからこそ、几帳面に命令に従って悪に荷担してしまう者が多いのは、われわれが日頃からしばしば目にすることではないか。その悪が途方もない規模に肥大して、生きる意味をも否定する犯罪になったのがアイヒマンの場合だから、この指摘はきわめて重要である。
日本や世界の問題にも通じるテーマ
いま一つのユダヤ人の非難が集中したのは、彼女の言及する各地のユダヤ人指導者の役割についてである。彼らがナチの命令でユダヤ人の名簿の作成に協力したために大量殺戮に手を貸す結果になったことを、彼女はとくに重大視したのだが、それが反感を呼んで、彼女はユダヤ民族を愛していないとさえ言われた。
もちろん事実は性格に検証されねばならないが、このように心ならずも自ら墓穴を掘り、巨悪に利用されるのは、誰もが陥りかねない罠である。それがもし自分と同じ民族の者の犯した行為であるなら、それだけいっそう冷静に、汚点を厳しく見つめることが必要だ。それを怠っては、今の日本社会と同様に、歴史認識の欠如を無様にさらすことになるだろう。
こうした凡庸さのもたらす悪を克服し、自分の属する民族の汚点をも性格に把握するには、ただ徹底して「考える」ほかに方法はない。映画の最後で彼女が学生たちに、考えるとは単に知識を増やすことではなく、善悪、美醜を見分けることだと語りかける言葉は、重い意味を持っている。
批判に深く傷つきながら、毅然としてそれに立ち向かうアーレントの姿は感動的である。主役のバルバラ・スコヴァは、夫や友人への深い優しさを湛えつつ、あくまでもラディカルに考える女性を演じて、小柄ながら圧倒的な迫力を見せる。現在の日本や世界の問題にも通じるテーマを深く掘り下げた、一人でも多くの人に観てもらいたい作品である。(フランス文学者)
●映画「ハンナ・アーレント」は、今月(10月)26日(土)から、東京・岩波ホールで公開。順次全国で。
すずき・みちひこ 1929年、東京生まれ。一橋大学、獨協大学教授を経て、獨協大学名誉教授。著書に『越境の時』『マルセル・プルーストの誕生』など。翻訳にニザン『陰謀』、サルトル『嘔吐』など。プルーセル『失われた時を求めて』(全13巻)の個人全訳で、2001年度の読売文学賞と日本翻訳文化賞を受賞。
−−「文化 映画『ハンナ・アーレント』を観て=鈴木道彦」、『聖教新聞』2013年10月24日(木)付。
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火論:ただ命令があれば=玉木研二
毎日新聞 2013年10月29日 東京朝刊
<ka−ron>
東京・岩波ホールでの上映初日、風雨にかかわらず、1回目から入りきれないほどだった。
評判の「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)は劇映画だが、ナチ戦犯アイヒマンを裁く法廷シーンでは、実録フィルムでアイヒマン本人が登場する。この効果が大きい。
ユダヤ人を貨物や家畜のように扱い、死地へ追いやる強制収容所移送を指揮した元親衛隊幹部である。敗戦後に逃亡し、変名してアルゼンチンで暮らしているところをイスラエル諜報(ちょうほう)部が急襲、逮捕した。1960年5月11日、日本では安保条約改定をめぐる激しい対立と混乱がピークに達したころだ。
エルサレムの法廷でこの初老の男は、時にいらだちをのぞかせ繰り返し弁解した。
「私は命令に従ったまでです」「それが命令でした」「すべて命令次第です」「事務的に処理したのです」「私は一端を担ったにすぎません」「さまざまな部署が担当しました」……。
亡命ユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントは裁判を傍聴し、そこに「平凡な人間が行う悪」を見いだす。人間的な思考を放棄した者が空前の残虐行為をなすおぞましさ。
アイヒマンは学業不振などで学校は続かず、20代で親衛隊に入隊した。やがてユダヤ人移送担当になり、実績を上げて評価される。
移送列車運行のスケジュールを綿密に立て、戦争の敗勢で移送が難しくなってさえ、計画の完全実施にこだわったといわれる。その結果に思いを致すより、上から期待され、評価されることこそ重要だったのだろう。
思考の力を失い、機械的に命令や職務権限を果たしていく凡庸な軍人、官僚。それがホロコースト(大虐殺)を遂行可能にする動力ともなる。彼にとって犠牲者数は統計上の数字にすぎない。
映画は、アーレントの洞察に対する社会の非難と、それに屈しない彼女の毅然(きぜん)とした姿を描き、心を打つ。
そして、アイヒマンの機械のように冷たい、どこかぼんやりしているような風情も不気味に残る。
彼は極めて特異な例外的存在なのだろうか。今日も世界に絶えない大規模な破壊行為だけでなく、社会の組織的な大きな過ちや錯誤にもその小さな影を見ないだろうか。
61年12月15日死刑判決。
「この日エルサレムは雨と風がひどかったにもかかわらず、傍聴人席は超満員だった」と外電は伝えている。(専門編集委員)
−−「火論:ただ命令があれば=玉木研二」、『毎日新聞』2013年10月29日(火)付。
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http://mainichi.jp/opinion/news/20131029ddm003070090000c.html