日記:としての意味



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 「あるものは他のもののために」という表現における「ために」〔代わりに〕は、ある語られたことと他の語られたこととの、ある主題化されたものと他の主題化されたものとの係わりに還元されるものではありません。さもなければ、<語られたこと>としての意味の次元にとどまることになりましょう。しかし私たちとしては、<語ること>としての意味がなにを表しうるのか、この点を探らなければなりません。
 「ために」〔代わりに〕は、人間がその隣人へと接近する仕方であり、もはやある者の尺度には収まらないような関係が他の者とのあいだに創設されるその仕方です。それは近さの関係であり、そこで働くのは、ある者の他の者に対する責任です。このような関係のうちには主題化不能な知解可能性があります。それは、主題や主題化の効果によってではなく自分自身によって意味を得るような関係なのです。つまり、少なくともここでは、知解可能性と合理性は根源的な仕方で存在に属するものではないのです。ある者が他の者のためにある、そのような関係のうちには、根拠の合理性にもとづいてはもはや考えられないようなある関係がはらまれているのです。
    −−E.レヴィナス合田正人訳)「<語ること>としての意味」、『神・死・時間』法政大学出版局、1994年。

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1906年の今日(1月12日)はエマニュエル・レヴィナス師のお誕生日。

ということで、独りレヴィナス生誕祭、うぇーぃ。

病院で仕事するようになってから、レヴィナスの議論がストンと腑に落ちることが多くなった。今年はなんとかレヴィナス論を1本仕上げておきたいと思う次第です。











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