書評:木村俊道『文明と教養の〈政治〉 近代以前のデモクラシー』講談社、2013年。




木村俊道『文明と教養の〈政治〉 近代以前のデモクラシー』講談社、読了。本書は近代初期のヨーロッパを中心に、思想史の観点から政治の「原型」を明らかにする試み、著者が注目するのは政治過程ではなく、政治の言説。デモクラシー以前の政治とは「文明」をその特徴とする。

近代以前の文明とはcivilizationではなく、civilicity。矮小化された技術知や知識としての社交儀礼(エチケット)ではなく、人間の所作や振る舞いといった身体的な洗練を含むもの。教養とて例外ではない。※ここに現代における知の変容が存在する。

デモクラシー以前の初期近代において政治運営に必要不可欠なコモン・センスとは文明的な教養と作法である。そして文明的な教養と作法こそ他者との交際や共存を可能にした。民主主義が一種の普遍化する以前の世界の共通了解を学ぶことは無益ではない。

近代以前の「政治」を学ぶことはデモクラシーと対立することではない、むしろ運営を可能にするためには必要な学習となろう、なぜならデモクラシーとは君主制や貴族政と比べて遙かに難易度の高い政治的技術が必要とされるからだ。

〈教養〉政治の全盛期、必要とされたのは手の込んだ儀礼やレトリック。洗練された身体的態度が、激情を制御しつつ、利益追求と共存が担保された。産業社会以降、時代錯誤と片づけられるも、オルテガを引くまでもなく、学ぶべき点は多い。

民主主義「以前」も「以後」も王様は「裸」であってよいわけではない(現代の王様は一人一人の私たち)。教養という実践的な智慧の意義を再度見直すべきであろう。それは「江戸しぐさ」と同義ではない。都合のよい捏造を退けながら、生きた知を再生する時かも知れない。

(「禽獣」と違う存在としての人間に倫理が存在する東洋思想で言うけれども〈礼楽〉)、木村俊道『文明と教養の〈政治〉』(講談社)読んで思ったけれども、形骸化するそれは退けながらも、やっぱり「型」というのをなし崩しに否定したら始まらなんなーという感。

想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)でも指摘がありましたが(そしてそれは知/不知の二元論ではありませんが)、芦部しらなくても「首相は庶民と同じでよい」という「レベルダウンでOK」ってイデオロギーは、民主主義「以前」「以後」にも最大の敵だわな。

木村俊道『文明と教養の〈政治〉 近代デモクラシー以前の政治思想』 失われた「政治の技術」  「シヴィリティに加え、他者を説得するためのレトリックや、状況に応じた判断を導く思慮によって支えられた」柔軟な叡智、単純に否定できないですね。








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