日記:コロンビア大学コアカリキュラム研究会


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 「ところで、そのうちまず優秀者支配制に対応するそれと相似た人間については、われわれはすでにこれを詳しく論じたが、このような人間を善くかつ正しい人間であると、われわれは正当に主張するのだ」
 「ええ、すでに論じました」
 「そうすると、つぎにわれわれは、それより劣った人間たち−−すなわち、まずスパルタふうの国制に対応する人間としての、勝利を愛し名誉を愛する人間を、そしてさらに寡頭制的な人間、民主制的な人間、僭主独裁制的な人間のことを、論究して行かなければならないわけだね? その目的は、最も不正な人間を観察し、これを最も正しい人間に対置させることによって、そもそも純粋の〈正義〉は純粋の〈不正〉に対し、それを所有する人間の幸福と不幸という点から見てどのような関係にあるか、というわれわれの考察を完成させることにある。そうすればわれわれは、トラシュマコスに従って〈不正〉を求めるべきか、それともいま示されつつある言説に従って〈正義〉を求めるべきかを、決めることができるだろうからね」
    −−プラトン(藤沢令夫訳)『国家 下』岩波文庫、1979年、172頁。

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金曜日は、大学での期末試験がありましたが、それを終えてから、かねてか要望の多かったコロンビア大学の文理横断の教養教育プログラム(コアカリキュラム)のテクストを読む研究会を始動しました。

初手としてプラトン『国家』を取り上げ、2時間近くつっこんで議論してきました。

プラトンの『国家』が対話篇において特異なのは、作中のソクラテスが、答えをだしてしまう点ではないかと思います。殆どの対話篇は実際のところ、ドクサを撃つものの、何らかの答えを導き出さない訳ですが、中期の対策となる『国家』では、不思議なことにプラトンの語らせるソクラテスは答えを提示します。

それがイデア論であり、システムとしての哲人政治の理想となります。ただ哲人政治やその具体的な仕組みについては許容できるものではないので、ポパーを導きの糸としながら、古典中の古典と格闘することに。

プラトンの意図は横に置いたとしても、結果としてはプラトン“主義”の社会構想は、ポパーが批判する通りですよね。その意味ではプラトンに対する批判というものは、僕が指摘するまでもありませんが、ほぼ出そろっており、批判としてすでに完成しているということ。

だとすれば、批判を踏襲してプラトンを理解した“つもり”になってしまうのではなく、しゃかいしそうとしての負荷をふまえたうえで、未来を展望するオプションの提案が必要になってくるのではないか……そんなお話をしました。

次は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』ですが、思想史においてethikがはじめて書名に登場する、これも古典中の古典。

俗に西洋思想史は、プラトンないしはアリストテレスの変奏曲といわれますが、基礎中の基礎になりますので、またしっかり学習していきたいなと思います。



The Core Curriculum


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