日記:歴史はまた、起源をおごそかに祭りあげるのを笑うことを教えてくれる



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 歴史はまた、起源をおごそかに祭りあげるのを笑うことを教えてくれる。起源をもちあげること、それは「万物の始めには最も貴重な、最も本質的なものが存在するという考え方のうちに再生する形而上学のひこばえ」なのである。ものはそもそもの始めにはその完全な状態にあったとひとは信じたがる。ものは創造主の手からきらめきを放ちながら出てきた、あるいは最初の朝の陰のない光の中にきらめき出たと信じたがる。起源はつねに、失墜の前、肉体の前、世界と時間の前のものである。起源は神々のがわにあり、これを語るのに、ひとはつねに神々の発生の系譜を歌いあげるのだ。しかし歴史の始まりは低いものである。というのは鳩の歩みのようにつつましやかで控え目だという意味ではなく、嘲弄的で、皮肉で、あらゆる自惚れをうちこわすようなものだということである。「人びとは自分が神の血統であると示すことによって、人間の至高性の感情を呼び起こそうとした。これは現在では禁じられた道になった。なぜならその戸口には猿が立っているからだ。」人間はこれから自分がそうなっていくもののしかめ面からまず始めたのだ。ツァラトゥストラでさえも彼の猿をもち、その猿が彼のうしろでとびはね彼の衣の裾をひっぱることになる。
    −−ミシェル・フーコー(伊藤晃訳)「ニーチェ、系譜学、歴史」、小林康夫石田英敬松浦寿輝編『フーコー・コレクション3 言説・表象』ちくま学芸文庫、2006年、354−355頁。

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現代は堕落している。だからこそ輝かしき過去に学べ−−だいたいこうした論調を声高に唱える連中にはろくなやつがいやしない。

例えば、出生率の低下が問題となって久しいが、その原因を「女性の社会進出」に認め「『性別役割分担』は哺乳動物の一員である人間にとって、きわめて自然」などとザレゴトを述べる女性学者がいたりする。

「女性の社会進出」が共同体形成を毀損すると認めるのであれば、なぜその女性学者は自身が指摘するがごとく「家庭」に引きこもり、出生率向上の範をたれるという選択肢を取らなかったのだろうかw

動物行動学においても役割分担論は噴飯されているし、人間において「性別役割分担」が定着するのは極めて後期近代になってからのことで、アメリカの家庭生活が憧憬される戦後日本の高度経済成長期に定着する「仕組み」で、生物学的のみならず歴史学的にもそれは自然な伝統ではない。

しかも同じ人物が、言論機関へのテロ行為を礼賛しながら、公共放送の経営委員に収まる動転の世界。加えて「わが国を代表する哲学者、評論家として活躍し、わが国の文化にも精通している」から選任したそうだが、学問的にもいかがわしい主張をして何ら恥じることのない人間が「わが国を代表する哲学者、評論家」であってよいのであろうか。

現代は堕落している。だからこそ輝かしき過去に学べ−−その言葉を時宜通りには否定しない。冒頭でも言及したけれども、しかし、だいたいそういう連中が、自分たちの歪曲した主張を補強する為に、持ち出す歴史の起源やら伝統というものはたいていがその歪曲した主張と同じく、ねじ曲がったものが殆どだ。

「これが自然です」

「伝統がこうなのだからそうしなさいよ」

ばかにつける薬はない。

「歴史はまた、起源をおごそかに祭りあげるのを笑うことを教えてくれる」から、こういう手合いは相手にしない方が賢明だ。



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【正論】長谷川三千子氏 年頭にあたり 「あたり前」を以て人口減を制す


 新年早々おめでたくない話−−どころか、たいへん怖い話をいたします。このままでゆくと日本は確実に消滅する、という話です。

 日本の人口は昨年の10月1日で1億2730万人となりました。すでに8年前から減少に転じて、今のところ毎年20万人ほど減り続けています。

千年後の日本人口ゼロに
 だからといって何が怖いのか、と首をかしげる人も多いでしょう。戦後急に増えすぎた人口がもとに戻るだけではないか。毎年20万人減れば百年後には1億そこそこの人口になってちょうどよいのではないか−−そう考える方もあるでしょう。しかし、そういう単純計算にならないというところが人口減少問題の怖さなのです。

 今の日本の人口減少は飢餓や疫病の流行などでもたらされたものではありません。出生率の低下により、生まれてくる子供の数が減ることによって生じている現象です。子供の数が減れば、出産可能な若い女性の数も減ってゆく。ちょうどネズミ算の逆で、出生率の低下による減少は、ひとたび始まると急カーブを描いて進んでゆくのです。学者たちの計算によると、百年後の日本の人口は現在の3分の1の4000万人になるといいます。そして西暦2900年には千人となり、3000年にはゼロになるというのです。

 千年後というと遠い話のようですが、もし現在の日本の1・41という出生率がこのまま続いてゆくならば、これは確実に到来する未来なのです。しかも、それを食い止められるチャンスは、年が経(た)つほど減ってゆく。半世紀後には、出産を担う年齢層(25歳から39歳)の女性の数が現在の半分以下になります。そうなると、出生率が倍になっても、生まれてくる子供の数はようやく今と同じ、ということになる。そうなってからでは遅いのです。

自国内解決のほかなし
 たしかに、世界全体としては今もなお人口過剰が問題となっています。しかし。だからといって、日本の人口減少問題の深刻さが減るものではない。人間は品物ではないからです。単純に、人口不足の国が人口過剰の国から人間を調達するなどということはできません。またもし仮にできたとしても、人口の3分の2を海外から調達している日本を、はたして日本と呼べるでしょうか? わが国の人口減少問題は、わが国が自国内で解決するほかないのです。

 ではいったい、この問題をどう解決したらよいのか? 実は、解決法そのものはいたって単純、簡単です。日本の若い男女の大多数がしかるべき年齢のうちに結婚し、2、3人の子供を生み育てるようになれば、それで解決です。

 実際、昭和50年頃まではそれが普通だったのです。もちろん一人一人にとってそれが簡単なことだったというわけではありません。いつの時代でも子育てが鼻歌まじりの気楽な仕事だったためしはないのです。しかし当時は、私も近所のお母さんたちもフーフー言いながら2、3人生み育てていた。それがあたり前だったのです。

 もしこのあたり前が、もう一度あたり前になれば、人口減少問題はたちまち解決するはずです。ところが、政府も行政もそれを大々的に国民に呼びかけようとは少しもしていない。そんなことをすると、たちまち「政府や行政が個人の生き方に干渉するのはけしからん」という声がわき起こってくるからです。

行政は方向転換すべし
 でもこれは全くおかしな話です。というのも、以前のあたり前を突き崩し、個人の生き方を変えさせたのは、まさに政府、行政にほかならないからです。

 たとえば平成11年施行の「男女共同参画社会基本法」の第4条を見てみますと、そこでは「性別による固定的な役割分担」を反映した「社会における制度又は慣行」の影響をできるだけ退けるように、とうたわれています。どういうことなのか具体的に言えば、女性の一番大切な仕事は子供を生み育てることなのだから、外に出てバリバリ働くよりもそちらを優先しよう。そして男性はちゃんと収入を得て妻子をやしなわねばならぬ−−そういう常識を退けるべし、ということなのです。

 実はこうした「性別役割分担」は、哺乳動物の一員である人間にとって、きわめて自然なものなのです。妊娠、出産、育児は圧倒的に女性の方に負担がかかりますから、生活の糧をかせぐ仕事は男性が主役となるのが合理的です。ことに人間の女性は出産可能期間が限られていますから、その時期の女性を家庭外の仕事にかり出してしまうと、出生率は激減するのが当然です。そして、昭和47年のいわゆる「男女雇用機会均等法」以来、政府、行政は一貫してその方向へと「個人の生き方」に干渉してきたのです。政府も行政も今こそ、その誤りを反省して方向を転ずべきでしょう。それなしには日本は確実にほろぶのです。(埼玉大学名誉教授)
    −−「【正論】年頭にあたり 「あたり前」を以て人口減を制す=長谷川三千子埼玉大学名誉教授」、『産経新聞』2014年01月06日(月)付。
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140106/fnc14010603200000-n1.htm

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