覚え書:「キャンパる:戦争を考える/上 元沖縄県知事・大田昌秀さん/旧満州千振開拓団・中込敏郎さん」、『毎日新聞』2014年08月01日(金)付(夕刊)。

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キャンパる:戦争を考える/上 元沖縄県知事大田昌秀さん/旧満州千振開拓団・中込敏郎さん
毎日新聞 2014年08月01日 東京夕刊

(写真キャプション)鉄血勤皇隊の少年兵として駆り出された悲惨な体験を語る大田昌秀さん=那覇市内の事務所で

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月26日、米軍が沖縄本島西方の慶良間(けらま)諸島に上陸して始まった沖縄戦。20歳以上の男性のみが徴兵された日本本土とは異なり、沖縄では徴兵年齢を満たさない14歳から19歳の若い人たちが、「鉄血勤皇隊」の隊員として戦闘に動員された。記者とほぼ同じ年齢で隊員として沖縄戦を経験した元沖縄県知事大田昌秀さん(89)を沖縄に訪ねた。3回にわたり、「戦争を考える」特集をお送りし、初回は旧満州千振開拓団の体験談も併せて紹介する。【「戦争を考える」キャンパる取材班】

 ◇若者は過ち繰り返すな−−元沖縄県知事大田昌秀さん(89)

 夏も本番。沖縄の青い海では多くの人たちが海水浴を楽しむ姿が見られた。大田さんは自らが理事長を務める沖縄国際平和研究所(那覇市)の事務所で、神妙な面持ちで戦争体験を語り始めた。

 ●19歳で鉄血勤皇隊

 45年当時、大田さんは沖縄師範学校で学生生活を送っていた。寄宿舎では、勉学や娯楽で厳しい制限をうける毎日。学校では徹底した皇民化教育を受け、大田さんも、国のために命をささげることに対し、何の疑問も抱かなかった。

 そうした中、米軍の沖縄本島上陸前日の同年3月31日、大田さんを含めた沖縄師範学校の教官と生徒が、首里城那覇市)地下の沖縄師範学校の壕(ごう)の前に召集された。ここで軍の少佐から、すでに徴兵年齢に達して現地入隊した者を除く沖縄師範学校の生徒386人と教員二十数人が「鉄血勤皇師範隊」として軍に徴用されたということを宣告される。生徒たちは、徴兵年齢に満たない、法的根拠のない軍隊として沖縄守備軍の直属隊に組織された。大田さんが19歳の時である。

 鉄血勤皇師範隊は、本部隊、野戦築城隊、斬り込み隊など任務別に編成され、大田さんは情報宣伝隊の「千早(ちはや)隊」に配属された。任務は、東京にある大本営の発表を、沖縄の各地の壕に隠れて暮らしている住民に伝えてまわること。その任務は死と隣り合わせだった。

 艦砲の飛びかう中、「トンボ」と呼ばれる米軍の偵察機に見つからないよう、村の壕に走る。大田さんら隊員が壕に到着すると、戦果の報告を期待する住民たちは、喜んで食事などをもてなしてくれた。隊員の口から戦果が伝えられるたびに、壕内は拍手喝采だったという。

 しかし、日がたつにつれて、住民の態度も変わっていった。大本営の発表と戦況の現状との間に明らかな隔たりを感じとっていたのだ。「そこまで戦果をあげていて、どうして壕から出られないんだ」と怒る住民に対し、大田さんは「今しばらくの辛抱です。いずれ勝利しますから、米軍の心理作戦に負けて投降しないでください」となだめることしかできなかったという。

 ●学友が直撃弾で死亡

 死と隣り合わせだったのは、壕外での任務中だけではない。4月21日、大田さんら千早隊員は壕の中で眠りについていた。壕の中は息苦しく、大田さんの学友の一人が新鮮な空気を吸いに壕の外に出たちょうどその時に直撃弾が爆発。大田さんらは負傷した隊員を畳で軍病院に運んだが、翌朝息を引き取った。これが鉄血勤皇師範隊の最初の犠牲者だった。これ以降、師範隊では戦死者が続出。隊員にも恐怖感が芽生えていった。

 5月27日、千早隊員は軍司令部壕に集められ、軍司令部が首里から摩文仁(まぶに)(糸満市)へ転進することを宣告された。すぐに千早隊はその先発隊として摩文仁へ向かった。摩文仁の戦場では、たびたび悲惨な光景を目の当たりにしたという。日本兵が弱った仲間の兵士の食料を奪うために銃殺する姿、兵士が壕で泣く赤ちゃんを殺し、民間人を壕から追い出す姿。太平洋戦争を「神聖なる戦争」だと教え込まれていた大田さんは、やりきれなくなった。そして、「自分がもし生き延びたら、なぜこんな戦争が起きてしまったのか明らかにしよう」と決心したという。

 6月18日、大田さんは軍司令部壕で、突然千早隊の解散を宣告される。米軍の戦車が迫っており、一刻の猶予もない。裸足のまま壕を出た。すぐに艦砲の破片で足を損傷し、はうようにして海岸を進んでいたが、米軍の戦車に追い詰められ、海へ飛び込んだ。足を負傷していたので途中で泳げなくなり、気を失った。その後、何日がたったかはわからないが、気が付くと海岸に横たわっていたという。大田さんは何度も「死」を意識し、「どうして自分には弾が当たらないのだろうかと思ったり、手りゅう弾で自決しようと考えたり、とにかく死ぬことばかり考えていた」と振り返る。

 しかし、野草の生えた岩に隠れているとき、「こうして野草ですら生きているのだから、ここで死ぬわけにはいかない」と思い直した。その後、自力で摩文仁へ戻った大田さんは、8月14日の日本のポツダム宣言受諾後も身を潜める生活を続け、10月23日、米軍の捕虜となり無事に生き延びた。

 ●歴史見つめ直して

 「戦争の恐ろしさは、戦争を経験した者にしかわからない」と語る大田さんは、戦後一貫して平和活動を続けている。当時、皇民化教育によって当然のように戦争へ参加していた若者たち。その一人であった大田さんは「皇民化教育さえ受けていなければ、徴兵も拒否していたかもしれない」と語る。教育の問題は、過去の問題ではない。「現代の若者たちは、自分たちを取り巻く情勢などを、よく考えなければいけない。しっかりと勉強しなければ、私たちのようにまた同じ過ちを繰り返すだろう」と警告する。

 ある日突然軍隊に組織され、激戦地で闘う宿命を負わされた鉄血勤皇隊員。動員された1780人のうちほぼ半数が若い命を落とした。私たち現代の若者が、こうした歴史を見つめ直し、深く考えなければならない。

 ◇一家で移住、父ら4人失う−−旧満州千振開拓団・中込敏郎さん(88)

 「新天地への憧れ。そして何より家族と離れたくなかった」

 旧満州(現中国東北部)への移住が国策として勧められていた1939(昭和14)年3月。当時13歳だった中込敏郎さん(88)=栃木県那須町=は父、母、姉、3人の妹と共に故郷の山梨県から満洲・千振(現中国黒竜江省樺南県)に渡った。「今の農業経営が大変なら援助する。無理して行くことはない」と叔父は反対したが、父は「自分たちで生活を切り開きたい」と押し切った。

 しかし、移住して1年後、慣れない開拓生活から父が病死。中込さんは開拓活動には従事せず、現地の小学校へ通い、省立畜産学校では朝鮮人、中国人とともに寮生活を送った。しかし、44(同19)年3月、大学へ入学すると、人種差別を目の当たりにする。寮内では日本人とそれ以外の人とで分けられ、米の配給は日本人のみに許された。大学の日系人の定員のほとんどが新たに日本から留学してきた者たち。彼らが当然のように人種差別をすることに中込さんは強い違和感を覚えた。

 45(同20)年8月9日、ソ連参戦で中込さんら学生たちは部隊を編成。臨戦態勢の中で15日の終戦を迎えた。奥地から避難してきた難民たちは新京(現長春)の収容所に入れられた。劣悪な環境で感染病が流行し、帰国を決めた人たちも港へ向かう途中で地元の暴徒に襲われた。無事帰国できたのは開拓団2000人のうち半数ほど。中込さん一家も、姉妹たちが次々に病気にかかり亡くなり、46(同21)年7月、約7年ぶりに祖国の土を踏んだ時には母と妹と中込さんの3人だけになっていた。

 帰国からほどなくして、昔の仲間とともに、満州での開拓地と同じ名前が付けられた新しい千振(那須町)の住民となった。しかし当時そこは竹の茂る満州以上の未開の地。開墾作業は困難を極めた。80人ほどでの共同生活では、もめごともあったが、千振開拓団の「千振一家の精神」という共通認識によって乗り越えた。その精神は、千振開拓農業協同組合になった現在も受け継がれている。

 協同組合の組合長を務め、子2人、孫2人に恵まれた中込さん。「戦争により家族をはじめ、多くのものを失ったが、今振り返ると、開拓人生に悔いなし」と締めくくった。

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 ■人物略歴

 ◇おおた・まさひで

 1925年沖縄県生まれ。琉球大学教授、沖縄県知事参議院議員を経て、現在NPO法人沖縄国際平和研究所理事長。沖縄戦の事実解明や、米軍基地問題の解決に取り組む。
    −−「キャンパる:戦争を考える/上 元沖縄県知事大田昌秀さん/旧満州千振開拓団・中込敏郎さん」、『毎日新聞』2014年08月01日(金)付(夕刊)。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20140801dde012070015000c.html


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