覚え書:「書評:日本のヴァイオリン王 井上 さつき 著」、『東京新聞』2014年08月03日(日)付。

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日本のヴァイオリン王 井上 さつき 著

2014年8月3日


◆名器づくりに燃えた時代
[評者]塩野米松=作家
 ヴァイオリンは、日本人にとっては馴染(なじ)みのうすい楽器のように思っていた。ストラディヴァリウスという名器が十億円もして、その楽器で演奏会が開かれると聞けば、遠い世界の話だと思ってしまう。試しにネットで入門者用のヴァイオリンセットを調べてみたら、六万円台ぐらいからあるのには驚いた。そればかりではない。この本を読み始めたら、意外の連続である。
 我が国は、大正年間には世界に誇るヴァイオリンの輸出国であったのだ。学校で唱歌を教えるのに、オルガン普及前は先生達はヴァイオリンで伴奏をしていたとか。
 著者は愛知県立芸術大学音楽学部の教授。日本のヴァイオリン製作者とその作品を追って資料を漁(あさ)り、人に会い、証言を集めていく過程を如実に書き記している。そこに浮き彫りにされたのは、人物の縁であり、人の執念であり、日本の音楽教育の歩みであった。
 彼女が追ったのは、鈴木政吉というヴァイオリン製作者。安政六(一八五九)年、尾張藩の下級武士の家に生まれた人。内職に三味線作りをしていた。このままでは食えないからと唱歌指導者を目指し、ヴァイオリンに出合う。それが明治二十(一八八七)年。そこから政吉のヴァイオリン作りが始まる。彼が目指したのは家庭で楽しめる高品質で安価なもの。自ら機械を作り、工場生産を始めた。第一次世界大戦の好景気に恵まれ、絶頂期の大正十(一九二一)年には年間十五万六千個のヴァイオリンを生産している。
 この後、息子がベルリン留学から持ち帰った古名器グァルネリを手本に高級ヴァイオリンの製作に没頭する。その作品は世界の有名演奏家にも評価され、相対性原理のアインシュタインの賛を受けたほど。なのに昭和七(一九三二)年に会社は倒産。明治の開化からたったの五十年でヴァイオリンの輸出大国になった日本に何があったのか。その熱がなぜ廃れていったのか。人で綴(つづ)られた日本音楽史を堪能した。
中央公論新社・2916円)
 いのうえ・さつき 愛知県立芸術大教授。著書『パリ万博音楽案内』など。
◆もう1冊 
 横山進一著『ストラディヴァリウス』(アスキー新書)。時を超えて多くの人を魅了してきた名器の価値や音楽家との関係などを解説。 
    −−「書評:日本のヴァイオリン王 井上 さつき 著」、『東京新聞』2014年08月03日(日)付。

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