覚え書:「記者の目:経済学者、故・宇沢弘文氏のこと=客員編集委員・原剛(早稲田環境塾塾長)」、『毎日新聞』2014年10月23日(木)付。


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記者の目:経済学者、故・宇沢弘文氏のこと=客員編集委員・原剛(早稲田環境塾塾長)
毎日新聞 2014年10月23日 東京朝刊

(写真キャプション)CO2排出削減について力説する宇沢弘文氏=原剛撮影

 ◇野生知と美学の人

 日本海に近い新潟大学教員宿舎の夜更け、宇沢弘文教授は時計を見やって言った。「まだ間に合います。林を近道しますが」

 旧制一高ラグビー部員だった偉丈夫は、杯を置いてすっくと立ち上がり、私のかばんをわしづかみにして暗闇へ飛び出した。「ちょっとヤブこぎします」。真夏の林の下草が足に絡みつく。教授はヒグマさながらに下草を蹴散らして突進、JR越後線内野駅の裏手に至った。汗まみれになり、私は最終列車に間に合った。

 先月亡くなった経済学者、宇沢弘文氏の姿が強烈な印象として思い出される。

 ◇手足で構想した国際炭素税論

 そのとき、1991年。毎日新聞社会部記者だった私の手元には、宇沢教授が会長をつとめた世界計量経済学会の「地球温暖化の経済分析研究会」で発表する国際炭素税の論文があった。

 (1)30年間の二酸化炭素(CO2)排出量を計算し、防潮堤、かんがい水路など温暖化の対策費用を明らかにする。

 (2)CO2の現在の排出量に比例して、対策費用を各国が国民所得に応じ「炭素税」の形で負担する。同時に、森林1ヘクタールのCO2吸収効果を計算し、森林保全、植林の補助金額を決める。

 (3)90年を基準として炭素1トンの排出にアメリカ国民は1人年間720ドル、日本は150ドル、インドネシアは3ドルを拠出する−−国際炭素税の構想である。

 「日本150ドル、インドネシア3ドル」論のむこうに、私は異国の街を走る教授の姿を思った。自分の目で民衆の生活情報を得るため、訪れた外国の空港でスエットに着替え、中心街までリュックを背に走った。「最長はアルゼンチン、ブエノスアイレスのエセイサ空港からの35キロかな」

 米スタンフォード大、カリフォルニア大、シカゴ大と経るにつれ、ノーベル経済学賞の有力候補となっていく。しかし、米国のベトナム戦争介入を批判し、帰国して東大教授となって、市場原理優先を先鋭化させる新古典派経済学から決別、環境保全を基本とする最適成長の経済学に転じた。きっかけは東京のジョギング路が首都高速にふさがれ、大気汚染や交通事故など自動車による社会的費用を構想し始めたことだ。そして、「社会的共通資本」論が宇沢経済学の礎になっていく。

 社会的共通資本は、豊かな人間関係と多様で魅力的な地域文化をつくるための自然環境(森林、生態系など)、インフラストラクチャー(道路、上下水道施設など)、制度資本(教育、医療、金融制度など)からなる。これら社会的共通資本のネットワークが人々の絶えることない働きかけによって築かれ、市場原理主義の生み出した経済の不均衡と社会の不安定が改められていく。教授は遺稿「社会的共通資本としての森」にそう記している。また、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)は社会的共通資本を損なうと主張し、亡くなる直前にTPP違憲訴訟の呼びかけ人に名を連ねた。

 ◇成田問題では双方から信頼

 専門知識と深い教養知に加え、鋭敏な野生知を備えていた。野生知とは他者の気持ちになろうとする私と、私によって私にさせられた他者との出会いの試みとされる(レビストロース「野生の思考」)。他者をおもんぱかり、本当の私と向かい合う姿勢ともいえようか。著書「自動車の社会的費用」「『成田』とは何か」「社会的共通資本」(いずれも岩波新書)は、教授が環境破壊の現場で被害者と遭遇し、連帯行動に向かった強烈な野生知の記録である。青年時代に寺で修行した教授にとり、野生知の働きは、他者との「縁」の決定的な影響を説く仏教に通じていたのかもしれない。社会に亀裂をもたらした成田空港問題の最終局面で、教授は厳しく対立した政府と反対組織の双方から仲介を頼まれた。農業の復興をもとに、地域の再生を願う教授の批判力と構想力を、当事者たちは信頼し、共感を寄せたのである。

 その当時のある朝、成田空港問題のインタビューを終えた宇沢教授が、皇居堀端の毎日新聞東京本社を走り出た。濃い空色の運動着にリュックを背負い、白ひげの雄ライオンを思わせる威厳を漂わせて道路を横断したところで、不審者を警戒中の警察官に取り囲まれた。後を追った私の面前で、警官は敬礼し、教授を“放免”した。すぐ宇沢氏だと気づいた警官がいたようだ。教授は再び走り始め、温暖化研究会をおいていた近くのビルへ向かった。

 文化勲章など世の称賛を受けるたびに、宇沢教授はそういう自分の姿を恥じらい、身をすくめた。得点したラガーが済まなそうに相手方から引き揚げる風情がうかがえた。美学の人であった。
    −−「記者の目:経済学者、故・宇沢弘文氏のこと=客員編集委員・原剛(早稲田環境塾塾長)」、『毎日新聞』2014年10月23日(木)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141023ddm005070009000c.html


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