覚え書:「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『献灯使』=多和田葉子・著」、『毎日新聞』2014年11月09日(日)付。

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今週の本棚:鴻巣友季子・評 『献灯使』=多和田葉子・著
毎日新聞 2014年11月09日 東京朝刊

 (講談社・1728円)

 ◇恐怖と笑いの「反・反ユートピア」小説

 未来小説は未来のことを書いたものではないし、歴史小説は過去のことを書いたものではない。どちらも、今ここにあるもの、ありながらよく見えていないものを、時空間や枠組みをずらすことで、よく見えるように描きだした「現在小説」である。

 『献灯使(けんとうし)』の表題作は、甚大な災害(原発事故)による環境汚染を被った日本。超高齢化社会で、主人公の作家「義郎(よしろう)」はもうすぐ百八歳、幼い曽孫(ひまご)の「無名(むめい)」とふたり暮らしだ。子供たちは汚染による虚弱体質で、物もろくに噛(か)めない一方、老人たちの体はびくともせず、子孫を看取(みと)る運命にある。早すぎる死と、理不尽な不死身が同居する世界。自らは絶えざる生を背負い、自らの死後に続く生を想像できないとは、二重の残酷さである。

 帯にデストピア文学と謳(うた)われているとおり、反ユートピア文学の王道を行く要素も多々ある。管理・監視社会、大半の外来語と翻訳小説出版の禁止、芸術活動の規制、人々の感情・感覚の希薄さ、ジョージ・オーウェルばりの新語・造語の使用。政府は始終、好き勝手に法律をいじる。いつなにが法に抵触するか知れず、空想を書いた小説も「国家機密を漏らした」として逮捕されるのを恐れて、義郎は書きあぐねる。想像力すら罪。しかしこうしたことも、現に特定秘密保護法のもとでは、起こりうる事態ではないか。

 まさにデストピア的だが、多和田ワールドが伝統を踏襲するだけのはずがない。デストピア文学の関節をあちこちで脱臼させて変形させ、笑いの爆竹を投げこむ。本作の世界では、外来語が使えないので、ジョギングは「駆け落ち」と呼ばれ、「ターミナル」は「民なる」と混合語になり、ネットが廃止された祝日は「御婦裸淫の日」。オフラインの当て字か。特にポリティカル・コレクトネス(差別表現をなくすこと)にうるさく、働きたくても働けない若い人を傷つけないために、「勤労感謝の日」は「生きているだけでいいよの日」になった。「迷惑」も「ありがとう」も死語。

 デストピア小説のはしり、ジュール・ヴェルヌの『二十世紀のパリ』が出た十九世紀後半から、二十世紀、ことによると二十一世紀まで、このジャンルは「肥大した先端技術」、つまりテクノロジーによる支配をとりいれ、人間味の欠如を描くのが常道だったが、「献灯使」ではその逆に、テクノロジーは影をひそめている。「厠(かわや)」ではトイレットペーパー代わりに新聞紙が使われ、政治記事の文字が逆さまになって尻に貼りつくのを義郎は面白がる(ささやかな政治転覆?)。通信・運送手段として飛脚が走る。なんだか、鎖国をしていた江戸時代の日本のようだ。デストピアでは中央に集権し、あらゆるものが国営化、統一化するのと逆に、本作では都道府県ごとに独自の政策を施行する地方分権体制らしく、政府も警察も民営化して、収拾のつかない状態にある。

 本作はむしろ、反デストピア、もしくは反・反ユートピアと言うべきかもしれない。

 無名たちは発作などがあっても苦しがらず、食べ物も美味(おい)しい不味(まず)いなど考えず、なにがあっても落胆しない。管理社会に特異なアパシー(無感覚・無感情)に陥っているかと思えば、他人の心情はじつは細かく感じとるのだ。人の気持ちは繊細に感じるが、自ら本当の感情を露(あら)わにすることはできないという、ここにも二重の苛(さいな)みがあるだろう。

 笑いの爆竹に躍り、不穏の暗い淵(ふち)に慄(おのの)き、読むうちに顔は涙でぐちゃぐちゃになるが、それが笑いの涙なんだか、恐怖の涙なんだか、ああ、もうわからない。

    −−「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『献灯使』=多和田葉子・著」、『毎日新聞』2014年11月09日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141109ddm015070040000c.html






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