覚え書:「今週の本棚:三浦雅士・評 『カミュ 歴史の裁きに抗して』=千々岩靖子・著」『毎日新聞』2014年11月09日(日)付。

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今週の本棚:三浦雅士・評 『カミュ 歴史の裁きに抗して』=千々岩靖子・著
毎日新聞 2014年11月09日 東京朝刊

 (名古屋大学出版会・5940円)

 ◇『異邦人』ムルソーの無関心は何を意味するか?

 カミュ復活、これが率直な読後感だ。

 カミュといえば一九五〇年代、六〇年代に青春を過ごしたものには忘れられない名である。サルトルと並ぶ実存主義の旗手。小説『異邦人』は不条理文学の代名詞だった。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」という評論『シーシュポスの神話』冒頭の一行に魅了された読者も少なくないだろう。

 一九一三年、フランス領植民地アルジェリアに生まれ、五七年にノーベル賞を受賞、一九六〇年に自動車事故で死去。四十六歳。早過ぎる死によって神話化されたが、サルトルらに批判されて生前すでに名声に翳(かげ)りが生じていた。サルトル実存主義マルクス主義を標榜(ひょうぼう)したが、カミュはそのマルクス主義、さらにはヘーゲルの歴史主義を真っ向から否定した。それを非政治的としてサルトルらに非難され、カミュは落ち目になったと思われたのである。だがマルクス主義が破綻したいまこそ、逆に全面的に再考されるべきではないか。これが本書の背景の大略だが、展開される再評価には説得力がある。

 冒頭、サイードの『文化と帝国主義』における『異邦人』批判が痛烈に反駁(はんばく)される。サイードカミュ植民地主義者として批判しているが、当時のアルジェリアの状況に即してみれば正反対だったことが分かるというのだ。カミュは、フランスやイタリアがアフリカ植民地政策を正当化しようとして古代ギリシャ古代ローマの「伝統」すなわち「歴史」を引くことを批判しているのである。『異邦人』で強調される主人公・ムルソーの社会状況への無関心にしても、第一にイデオロギーとして機能するそういう「歴史」への無関心であり、第二にアルジェリア人とアラブ人の「差異」に対する無関心である。アルジェリア人というのはフランス政府が植民地アルジェリアに棄民同然にして送ったフランス人のことだが、カミュは、アルジェリア人とアラブ人に差異はない、差異はむしろフランス本国人とアラブ人を含むアルジェリア人との間にこそあるといっているというのだ。いわば激しい戦闘的な無関心である。

 これがカミュの歴史主義批判、共産主義批判の淵源(えんげん)だというその議論が迫力を持つのは、アルジェリア人の象徴としてカミュの母、耳が不自由で非識字者で、まさに一生を歴史の外に生きたというほかない母の存在が想定されているという指摘によってである。母だけではない。わずか二十九歳で戦死させられた父も、母の弟も、祖母も非識字者だった。著者に誘われて二十年ほど前に邦訳された未完の遺著『最初の人間』を併読したが、深い感動を覚えた。著者のいうカミュの「非−歴史性のモラル」が納得できる。カミュは植民地アルジェリアという視点から西洋の進歩史観を根底から批判し、そこに倫理の基礎を置こうと企てていたのだ。考えてみれば歴史を生きているのは人類の一部にすぎない。

 指摘しておきたいのは、カミュと、あたかもその死と踵(きびす)を接するように登場した一群のラテンアメリカ文学の担い手たちとの関係である。いわゆる魔術的リアリズムの手法はカミュの『最初の人間』にもっともよく示されていると思える。カルペンティエールもガルシア=マルケスリョサも、じつはカミュの「非−歴史性のモラル」から出発していたのではないか。

 世界文学の読みを変えるだけではない。ウォーラーステインらの世界システム論などを考えるうえでも、カミュの思想は示唆するところ大きいと思わせる一冊である。
    −−「今週の本棚:三浦雅士・評 『カミュ 歴史の裁きに抗して』=千々岩靖子・著」『毎日新聞』2014年11月09日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141109ddm015070037000c.html






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カミュ 歴史の裁きに抗して
千々岩 靖子
名古屋大学出版会
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