書評:想田和弘『熱狂なきファシズム 日本の無関心を観察する』河出書房新社、2014年。

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想田和弘『熱狂なきファシズム河出書房新社、読了。ファシズムに必然するのが狂気的熱狂だ。しかし著者は今日のファシズムを「じわじわと民主主義を壊していく」低温火傷という。「ニッポンの無関心を観察する」(副題)と、憲法改正特定秘密保護法集団的自衛権行使容認への現在が浮かび上がる。

気がついたときには手遅れになるのがファシズムの特徴だが、内向きなナショナリズム喝采し、ヘイトスピーチが公然とまかり通り、貧困と格差が増す現在日本は、もはや「平時」ではない。反知性主義の勢いは民主主義を窒息させようとしている。

「僕は、私たちの一人ひとりが普段から目の前の現実をよく観て、よく聴くことこそが、巡り巡って『熱狂なきファシズム』への解毒剤になりうるのではないかと考えている。なぜなら虚心坦懐で能動的な『観察』は無関心を克服」するからだ。

世の中の変化のスピードが加速する現在は同時に忘却の速度が加速化している時代。だからこそ「現在」をよく観る必要があろう。著者が「観察映画」で追求してきた「能動的な存在としての観客と、互いに尊重し啓発し合う対等な関係」の構築こそ現在の課題だ。

“『永遠の0』が興行的に大成功した最大の秘密は、それが表面上「反戦映画」の体裁をとったことにある” 「あとがきのような『永遠の0』論」で締めくくられるが、こうした戦術と下支えする心情が「熱狂なきファシズム」を加速させる、警戒せよ。

 

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 「観察」という言葉に、冷たい響きを感じる人がいる。観察者と被観察者は、ガラスか何かで隔てられていて、あくまでも冷徹な分析がなされ、観察者は一切傷つかないというイメージがあるのであろう。
 しかし、前項でも述べた通り、観察という行為は、必ずといってよい程、観察する側の「物事の見方=世界観」の変容を伴う。自らも安穏としていられなくなり、結果的に自分のことも観察するはめになる。
 例えば、蝿といえば、蝿タタキで潰すべき憎き存在というのが一般に流布するイメージだが、目の前にとまっている蝿の様子を観察すると、実に繊細な前脚や後脚を持ち、身繕いをする姿は優雅で上品で美しくもある。蝿=悪と決めつけていた自分が恥ずかしくなる。
 あるいは、身体の周りをブーンと飛んでいる蚊。思わず潰そうとしてしまうけれども、よくよく観察してみると、食事をするのにも命がけであることが分かる。僕らがコンビニへおにぎりを買いに行くのとは、大違いである。そう思うと、安易に潰したり、殺虫剤を撒いたりできなくなる。
 逆に言うと、蝿や蚊は害虫であるという固定観念があるから、僕らはあまり深く考えずに殺すことができる。それは、広島や長崎に平然と原爆を落とすことができる心理と、全く一緒ではないか。
 「観察」の対義語は、「無関心」ではないかと、ある人が言った。僕は、なるほど、と同意する。
 観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は究極的には、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるを得ない。
 観察は、自己や他者の理解や肯定への第一歩になりうるのである。
    −−想田和弘『熱狂なきファシズム 日本の無関心を観察する』河出書房新社、2014年、157−158頁。

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