覚え書:「デモクラシーの本質、追求 松尾尊兌さんを悼む 京都大教授・永井和」、『朝日新聞』2014年12月23日(火)付。


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デモクラシーの本質、追求 松尾尊兌さんを悼む 京都大教授・永井和
2014年12月23日

(写真キャプション)14日に85歳で死去した松尾尊兌さん=2004年、京都市
 ◇京都大教授(日本近現代史)・永井和

 12月14日午前10時30分に松尾尊兌(たかよし)先生が亡くなった。1カ月半前に85歳の誕生日を迎えたばかりである。

 戦後日本を代表する歴史家の1人であり、大正デモクラシーの研究では不朽の業績を残した。単行本だけでも著書は16冊にのぼり、質量ともに余人の追随をゆるさぬものがある。吉野作造をテーマに執筆中の岩波新書の完成をみることなく、病に斃(たお)れられたのはまことに残念である。

 以前、先生は、満州事変期の吉野がデモクラシーを護(まも)るために最後の抵抗を試みていた、と論じたことがある。公表された論説で、吉野は満州事変や日本の国際的孤立もやむをえないと述べているため、一見すると、彼が袂(たもと)をわかった娘婿の赤松克麿(かつまろ)(軍部の侵略主義を積極的に支持して国家社会主義に転じた)と大同小異に見えるが、そうではない。

 遠くから見ればごく僅(わず)かとしか見えないが、吉野と赤松にははっきりとした違いがあり、デモクラシーを研究する者は、その違いを見抜く目をもたねばならない。その違いを見ずに、吉野を赤松と同列にみて斬って捨てる議論も、吉野にかこつけて赤松を弁護する議論も、いずれも先生は否定した。

 その大正デモクラシー研究の根底には、「歴史家がデモクラシーの伝統を見いだしえずして、どうして日本においてデモクラシーが可能になりえようか」という問題意識があった。見いだされるべきデモクラシーの伝統とは、反・非帝国主義、反・非植民地主義でなければならなかった。

 かつて終戦の際、再起の日を期して軍事訓練用の小銃を油紙に包んで土中に埋めた、絵に描いたような軍国少年としての戦争体験。そこから百八十度転換した松江高校、京都大学での学生生活。その両者からして、このことは動かせない一線であったと思う。

 石橋湛山吉野作造は、そのようにして先生によって見いだされたデモクラシーの先達であり、その伝統の上に構築されるのでなければデモクラシーは存立しえないとされたのである。
    −−「デモクラシーの本質、追求 松尾尊兌さんを悼む 京都大教授・永井和」、『朝日新聞』2014年12月23日(火)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S11520691.html


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