覚え書:「争論:文系学部で何を教える 冨山和彦さん、日比嘉高さん」、『朝日新聞』2015年03月04日(水)付。

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争論:文系学部で何を教える 冨山和彦さん、日比嘉高さん

2015年03月04日

(写真・図版)大学・短大への進学率/国立大の学科別学生数の割合

 大学で文系学部は何を教えるべきか。むしろ職業訓練に力を入れたほうがいいのか。人文・社会科学系学部などの「廃止や転換」を促す通達を文部科学省が昨年、全国の国立大学に出して以来、議論が盛り上がっている。いま、大学に求められる役割とは何だろう。

 〈議論のポイント〉

 ・重視すべきは学術か実学

 ・身につけるべき教養とは

 ・大学は何のためにある

 【実践力】実社会に通じる教育こそ重要 経営コンサルタント・冨山和彦さん

 日本経済は、大きく二つの世界に分かれてしまいました。本当に世界のトップを相手に闘う自動車、電機、ITなど大企業中心のグローバル経済圏と、交通や飲食、福祉など地域に根ざした中小中堅のローカル経済圏とに。

 大学進学率が5割を超え、大学が大衆化したいま、卒業生の大半が進むのはサービス産業を中心としたローカルの世界。ところが、その生産性は欧米諸国に比べて相当低い。急速な人口減で労働力も人材も不足しています。今後、ローカル経済圏の生産性をいかにして高めていくかが、日本の未来を考える上でとても重要です。

 だからこそ学生には、職業人として必要なスキル、実践力を大学で身につけてほしい。学術的な教養にこだわる従来の文系学部のほとんどは、ローカル大学にはもはや不要です。何の役にも立ちません。サミュエルソンの経済学ではなく簿記会計を、憲法学ではなく宅建法を、シェークスピアよりも観光業で必要な英語をこそ学ばせるべきです。

 そもそも日本には文系学部が多すぎる。全国各地にミニ東大をつくって総合大学化した、あしき結果です。対応できない教員には辞めてもらうか、職業訓練教員として再教育を受けてもらえばいい。

 昨秋以来、文部科学省有識者会議で何度か持論を展開し、たくさんご批判をいただきました。その典型が、博士号まで持っている大学教員たるものに職業訓練をさせるなんてアカデミズムへの冒涜(ぼうとく)だ、というものです。私はそこに一種の差別意識を感じましたね。学術こそが高尚で、実学をやる人間は二級市民だというような。

 背景には、戦後日本の高等教育における異様なまでの教養至上主義があります。大学とは学術の中心であって深く学芸を研究する場だ、と学校教育法でも定められている。つまり技能教育をやる場所ではないんだ、と。これは世界ではガラパゴス的な定義ですよ。

 私は、このアカデミズム一本の「一つ山」の構造を「二つ山」にすべきだと考えているわけです。高度な資質を育てるアカデミズムの学校と、実践的な職業教育に重点を置いた実学の学校とに。多くの先進国のように、山を二つにすることで、偏差値による序列化から解放された別の世界をつくることもできる。別の世界の一流だって、十分にあり得ます。どっちの世界が上とか下とかいう話ではないんです。

 アカデミズムというのは本質的にグローバルです。だって人類普遍の真理を探すわけですから。ローカル大学でも本当にやりたければ、世界で通用する研究に自力で取り組めばいい。成果はネットで社会に公開したらどうでしょう。ただ、それを学生に押しつけるべきではない。むしろ卒業後にちゃんとメシが食えるよう、実学を教えてあげるべきです。

 そもそも教養って何でしょう。教養、つまりリベラルアーツの本来の定義はプラトンの時代から、人間がよりよく生きていくための「知の技法」でしょう。それが現代では、たとえば簿記会計になるんです。実社会を生きていく上で確実に役に立ちますから。

 実学を教えるのは嫌だ、でも世界に通用するアカデミズムでは闘えないという人には、じゃあ大学はいったい誰のため、何のためにあるのですかと私は問いたい。

 大学の先生は、もっと現実社会をよく見るべきです。技能を軸にして日々の糧を得ていく大多数の学生の人生にとって、何が本当に必要な「教養」なのか。虚心に見つめ直すべきときです。

     *

 とやまかずひこ 60年生まれ。経営共創基盤(IGPI)CEO。実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議の委員。

 【考える力】蓄えた底力で危機乗り越える 名古屋大学准教授・日比嘉高さん

 いま目の前で「役に立つ」ように見える一部の分野に、学生の能力と関心を絞り込んでいくことの恐ろしさを、もう少しリアルに考えたほうがいいと思います。

 20年後、この社会がどうなっているか想像できますか。誰にもわかりませんよね。わからないからこそ、どんな未来にも対応できるよう、次の世代には十分な力をつけてあげたい。よりよく生き、生き延びていくために、彼らの可能性をより広く、高く残してあげたい。それが、大学が果たすべき役割だと思うんです。

 ところが大学を職業訓練学校にするような議論は、そんな機能を大学から奪ってしまう。技術は日進月歩ですから、せっかく学んでも少し時間がたてば、あっという間に陳腐化するんですよ。

 そもそも実社会が求める人材、ニーズとは何か。それは重層的な判断力でしょう。ネットが発達したいま、ちょっと検索しただけでも情報があふれ出てくる。何が正しいか、どう評価したらいいかを様々な角度から考え抜き、選択しなければならない。自分の頭で考える力が求められています。

 大学の文系学部で鍛えるのが、この力です。たくさん本を読み、膨大な学説と向き合い、いろんな可能性を検証してつぶしていく。時間がかかって面倒臭いプロセスを背負い込む。そうやって身につけた教養は、どんな分野に進んでも役に立つ力になるはずです。

 実際、私が学んだ金沢大学でも、北陸3県から集まった学生の多くが卒業後は地元に帰り、県庁や学校、地銀などに就職しました。地域社会を支える中核的な人材に育っていった。従来の文系学部は不要という議論には、地方の学生や地域の知的能力に対する侮蔑がありませんか。

 地方には選択肢が少ない、という現実もある。経済的に厳しくて実家から通うしかない学生が増えている昨今。地方の恵まれない学生の選択肢を狭めることが、社会の利益になるとは思えません。

 研究の質も低下するでしょう。たとえばサッカーのJ1で考えてください。上位2チームに絞って育成資金を集中させたとして、それで日本代表が強くなると思いますか。やっぱり裾野が広がり、全体のレベルが上がって初めて頂上も高くなるものでしょう。すぐれた研究者は地方にも多いのに、ポストが削られていったら層は薄くなる一方です。

 いまや日本は借金だらけ。大学のお金は切り詰めて「社会的要請の高い分野」に回し、あとは私立大学に任せたいという狙いはわかります。いわゆる「選択と集中」ですね。ある程度は、仕方のない流れなのだろうと私も思います。

 しかし、これは企業経営の発想です。会社だったら、選択と集中によって失敗しても別の会社がやってくる。しかし社会は、国は、つぶれたら終わりです。未曽有の局面に直面しても立ち向かえるだけの底力を、社会に蓄えておくことが長い目で利益になるのです。

 大学はいまのままでいい、と言っているわけではありません。振り返って考えるべきことは多々あります。自らの研究と教育にどういう価値があるのか。信じるところを具体的に語り、社会に返していくことが求められていると感じます。ただ、それは市場主義にのみ込まれる形ではいけない。

 目先の利益にとらわれた改革が進めばどうなるか。教育は壊滅的な打撃を受け、社会は資産や出身地によって階層化し、格差が広がるでしょう。私たちは、そんな未来を望んでいるのでしょうか。

 (聞き手はともに萩一晶)

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 ひびよしたか 72年生まれ。日本近代文学・文化や移民文学を研究。5月に「いま、大学で何が起こっているのか」を出版予定。

 ◆キーワード

 <国立大学改革> 文部科学省は昨年9月、人文・社会科学系や教員養成系の学部について「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」を促す内容の通達を出した。国立大学が策定中の第3期中期目標(16年度から)の参考としてもらうため、同省の審議会である国立大学法人評価委員会の考え方を示したものだ。

 ◇一緒に考えませんか

 大学のあり方について、ご意見を募集します。投稿はforumpage@asahi.comか、〒104・8011(住所不要)朝日新聞オピニオン編集部「大学」係へ。
    −−「争論:文系学部で何を教える 冨山和彦さん、日比嘉高さん」、『朝日新聞』2015年03月04日(水)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S11631210.html





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