日記:年度表記における「元号」と「西暦」の違い

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数ある大学の卒業式のなかでも群を抜いているのが、立教大学同志社大学の祝辞ではないかと思います。「学ぶことの意義」(立教)、「民主主義の原理」(同志社)に関してかなり踏み込んだ内容でありつつも、平易にその翠点を述べたスピーチではないかと思います。

さて読みながら気がつきましたが、立教大学同志社大学ともに卒業式(および学位授与式)の年度表記は「元号」を宛てず、「西暦」を採用しております。

これは、例えば東大に代表される「官学」(東大は元号年度表記)に対する「私学」の気概、そしてキリスト教主義に由来するものですが、上から下まで、ことあるごとに「売国奴」「非国民」という言葉で異論を封じ込めてしまおうとする現下の日本においては、意味ある勇気ある挑戦ではないかと思います。

昨年は、西暦表記の学位記に腹を立てた人間が元号表記に取り替えろと訴訟を起こす時代ですからねえ。

立教は母校のひとつとはいえ、エールを送りたいと思います。

ちなみに同じ私学でも慶應義塾元号で年度表記。早稲田はは西暦で年度表記。なんか、これも対照的だなあ。

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卒業生の皆さんへ(2014年度卒業式[学部])


2015年3月24日
立教大学総長 吉岡 知哉

立教大学はこの春、総計4,320名に学士号を授与し、卒業生として送り出します。皆さん、卒業おめでとうございます。

本日の卒業式は、立教大学にとって特別の意味を持っています。言うまでもなくそれは、皆さんたちの多くが2011年4月に立教大学に入学された学年だということによります。

3月11日に発生した東日本大震災とそれに続く東京電力福島第1原子力発電所事故によって、私たちは皆さんを迎える入学式を行うことができませんでした。皆さんの中には高校の卒業式も中止となった人もいることでしょう。その後も余震が続き原発事故が深刻化する中で、立教大学は新年度の授業開始自体をひと月遅らせざるを得ませんでした。

皆さんが東日本大震災の年に立教大学に入学し、4年間の学生生活を送ったことを、私たちは決して忘れることはありません。東日本大震災福島第1原発事故は、私たちの日常がいかに脆弱な基盤の上に成り立っているかを暴き出しました。同時に私たちは、科学技術によって自然を支配し統御することができるという、人間の傲慢な幻想が打ち砕かれる瞬間を目の当たりにしたのです。東日本大震災原発事故は、多くの人々の命と生活を奪い、広範囲にわたって豊かな国土の喪失を引き起こしました。

水や食糧、空気や大地といった物質的環境から、社会制度、国の仕組みまで、それまでの信用がことごとく打ち崩され、言わば「底が抜けた」状態になりました。学問の府であるべき大学も例外ではありません。 あれから4年。被災地の復興はまだ途上であり、原発事故はなお進行中です。多くの人々がかつてのすみかを追われ、避難生活を強いられています。東日本大震災原発事故が引き金になったかのように、私たちを取り巻く状況も大きな変化を遂げています。

日本においては、戦後と呼ばれる時代を構成する要素が、一つ一つ崩れ、国際情勢も混沌の度合いを深める一方です。当初から懸念されていた反知性主義は、予想以上に社会に浸透しているように見えます。

このような時代にあって、何よりも大切なことは、自分で考える努力をやめない、ということです。

考えるという行為は、しかし、決して簡単なことではありません。 膨大な情報が高速で流通する現代にあっては、大量の情報を収集し、迅速に処理する能力が高く評価されます。競争的環境にあっては、情報収集は競争相手に勝つための最も重要な手段です。他の人、他の会社が持っていない情報を持つこと無しには、優位を確保することはできないでしょう。 個人のレベルにおいても、「私はあなたが知らないことを知っている」というひと言は、議論の場で相手に勝つための決定的な一撃になるでしょう。

これに対して、考えるという行為は、効率という基準にはなじみません。効率を上げるためには基準を平準化し、無駄をなくしていかなければなりませんが、考えるという行為は、基準自体をいろいろと動かし、無駄と思われるものを繰り返し検討するという作業抜きにはあり得ません。確実に成果が出るかどうかも分からないし、何よりも時間がかかります。

けれども、私たちが生きているこの社会の存立基盤自体が変化している中で、情報として流通しているものを現在の基準で効率よく処理することを続けても、本質的な問題を問題として取り出すことは難しいと言わなければなりません。

では、自分で考えるとはどういうことか。

この問いは考えることについて考えるという問いになっており、残念ながら今の私には答える能力がありません。しかし確かなことは、考えるという力を身につけるための訓練は、皆さんはこれまでずっと続けてきたということです。言うまでもなく、「学ぶ」という営みがそれです。

4年前、中止された入学式式辞の替わりにホームページに掲載したメッセージのなかで述べたこととも重なりますが、学ぶという営みは、自分にとって未知のもの、異質なものを自分のなかに取り入れることによって自分を変化させていく行為、あるいは技術を学ぶ場合のように、今の自分ではできない体の動かし方に自分を合わせて行く行為です。

したがって、学ぶことができるためには自分とは異質のものを「受容」することができなければなりません。異物をそれが異物であるという理由で拒絶するならば、そこには学ぶという出来事は起こらないのです。

4年前のメッセージでは私はまた次のように述べました。

「あらかじめ確固とした私があるのではなくて、私は学ぶことによって他者のまなざしを持ち、そのまなざしを通じて私を発見するのです。学ぶこと、勉強することとは私が私ではない他者になること、私の中に他者を育てることです。私の中に他者がいることによって、私は、私以外の人々の喜びや悲しみに共感することができるようになるのです。」

「自分で考える」という行為は、このように学ぶことを通じて形成される、私の中の他者との対話だと比喩的には言うことができるのではないかと思います。そして、考えることによって私の中の他者は成長し、それとともに私もさらに変わっていくのです。

立教大学での学生生活を通して皆さんは多様な学びの過程を歩んできました。今自覚しているか否かにかかわらず、皆さんはそれらの学びの過程を通じて「考える力」を育んできたのです。これから皆さんたちの大部分は、大学とは異なる社会環境へと出て行くことになります。そこでは大学とは異なる準拠枠が機能しているでしょう。歴史においては、社会の中のある一部の構成部分のみで通用する準拠枠が、あたかも普遍的であるかのように、人間社会全体に適用されることがあります。現代の市場原理もその一つです。

これに対して、「学び、考える」という営みを基礎とする教育研究の場である大学は、その時々の支配的な準拠枠の下にある社会の中の異物であり続けてきました。リベラルアーツを旗印に掲げる立教大学は、このような大学の社会的な役割について常に自覚的です。

「自由の学府」立教大学を卒業する皆さん、「学び、考える」という営みをぜひこれからも続けてください。

卒業おめでとうございます。

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総長紹介 | 立教大学



2014年度卒業式の入学式の祝辞(2011年)

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新入生の皆さんへ(2011年度)

立教大学総長 吉岡 知哉
2011年4月

立教大学総長 吉岡 知哉
新入生の皆さん
入学おめでとうございます。

立教大学はこの春、4,617名の学部生と、535名の大学院生を迎え入れました。新しく立教大学の一員となられた皆さんを、私たちは心から歓迎いたします。

毎年4月に、大学は新入生を迎え入れます。学生にとって一生に一度の入学式は、大学という共同体にとっては、年に一度、「始まり」の時を意識し、自分たちの原点を確認する、「再生」の儀式です。この季節は、それゆえに、春という名にふさわしい、軽い興奮を伴ったものとして私には感じられます。
けれども2011年の春を、私たちは、いつもと同じようには迎えることができませんでした。3月11日に発生した東日本大震災津波、それに伴う福島第一原発事故の深刻化という事態のなかで、立教大学は卒業式と入学式を中止し、新年度の授業開始自体を、ひと月遅らせざるを得なかったのです。
この決定を下すにあたっては、強い余震の多発、計画停電交通機関の混乱、原発事故の推移等を総合的に判断しました。その際には、学生の安全を第一に考えて、一カ所に多数の人間が同時に集まる事態を避け、電力や燃料、生活必需品が不足している被災地と被災者の方々への負荷をできるだけ軽減するよう配慮しました。
しかし、新しい年度の初めに、新入生の皆さんに直接お話しする機会をもてなかったことを、私は心から残念に思っています。

今回の東日本大震災は、巨大な自然災害であるだけでなく、人間と自然の関係、文明社会と科学技術のあり方を根底から揺るがす出来事です。私たちの社会は、一瞬にして一万数千人の同朋を失い、今なお十数万人の方が、過酷な避難生活を余儀なくされています。現在も終息の展望が見えない原発事故は、人類の文明が生み出した最先端の科学技術が、人間の統御能力を超えるさまを、私たちの眼前に示しています。
大学は、文明社会の発展に大きな役割を果たしてきました。とりわけ19世紀以降の科学技術の進歩は、大学という研究・教育機関の存在なしには成り立たなかったでしょう。
その意味で、今回の大震災と原発事故は、大学にとっても、自らの存在意義にかかわる大きな出来事でした。私自身、研究教育に携わる大学人として、この状況に真摯に向き合わなければならないと考えています。

皆さんが入学された立教大学は、137年前、1874年に、アメリカ聖公会の宣教師であるチャニング・ムーア・ウィリアムズ主教が、東京の築地に作った、「立教学校」という小さな私塾をその起源としています。当初わずか数人で始められた立教学校では、聖書と英学の勉強がなされたといわれています。

東京六大学を初め、現在まで続くいくつもの大学が、やはり同じ時期にその礎を築いています。この時期は、明治維新を経て、日本が近代国家への歩みを始めた時期にあたります。国家運営のための官僚と、殖産興業を担う技術者の育成を目的として設立された、東京帝国大学はもちろん、福沢諭吉慶應義塾大隈重信の東京専門学校、明治法律学校、法政大学の元となる東京法学社中央大学の前身である英吉利法律学校など、多くの学校が、実学と立身出世を掲げ、近代国家と産業社会の担い手の育成を目指したのです。
その中で、立教大学は、創設のときから、ヨーロッパの伝統に根差すリベラルアーツを中心とする人間教育に力を入れてきました。近代的大学の枠組みに沿ったこれらの大学と並べてみると、立教大学は、やや異質な存在なのです。
近代的な知の体系、近代社会の仕組みの限界は、久しい昔からさまざまに指摘されてきました。グローバル化が進み、インターネットが世界の情報を一瞬に結びつける現代にあって、これまでの思考の枠組みが現実に追いつかなくなっていることは明らかです。近年、「教養」の重要性が強調されるようになっているのも、このような時代状況を反映していると言うことができますが、近代の大学の中にあって、立教大学が教養教育の伝統を保ち続けてきたことを、立教生として知っておいていただきたいと思います。

新入生の皆さん。
皆さんはこの困難な時期に、このような伝統を持つ立教大学に入学されました。立教大学の一員となった皆さんに、私は、ぜひ真剣に勉強してほしいと願っています。
では、勉強する、学ぶとはどういうことでしょうか。
もちろん、これまで知らなかった新しい知識を身につけることが重要であることは言うまでもありません。これから皆さんが大学で学ぶさまざまな知識は、高校までに学んできたことと比べると、確かにずっと高度なものであると言うことができるでしょう。
しかし、大学で学ぶことの意義は、高度で新しい知識の獲得に尽きるものではありません。学ぶ過程で知識の獲得は絶対に必要ですが、知識を獲得したからといって、学んだことにはならないのです。
これまでの学校生活で、面白かった授業、わくわくした授業を思い出してみてください。その時私たちは、授業に取り込まれてしまい、いわば我を忘れるという感覚を持ったのではないでしょうか。
「学ぶ」という言葉は、「真似(まね)ぶ」、まねをするという言葉と同じ語源をもっていると言われます。まねをすることで、「私は、私ではない私」になります。つまり私たちは、学ぶときに、現に今ある私の外に出て、他者のまなざしを持つことになるのです。
あるいはこのように述べた方が正確かもしれません。あらかじめ確固とした私が先にあるのではなくて、私は学ぶことによって、他者のまなざしを持ち、そのまなざしを通じて、私を発見するのです。
学ぶこと、勉強することとは、私が私ではない他者になること、私のなかに他者を育てることです。私の中に他者がいることによって、私は、私以外の人々の、喜びや哀しみに共感することができるようになるのです。

読書が大切だと言われるのも、同じ理由からだと言うことができるでしょう。読まれなければ、書物はただ紙のうえにインクの点と線が書かれているだけのものです。私たちは、文字から文字、ことばからことばへと辿りながら、書物の世界に足を踏み入れていきます。わくわくする授業と同じく、素晴らしい書物を読んでいるとき、私たちは読んでいる自分と書物の世界との区別を忘れてしまいます。読書を通じて、私は私から抜け出してもう一つの世界を経験し、それによって、私の中の他者を育てるのです。

自分の中に他者を持つこと。他者のまなざしで自分を見ること。複数のまなざしで世界を見ること。これらのことができることこそが、「教養」という名で呼ばれるものです。「教養」とは、知識の集積を超えて、他者に深く共感する力なのです。
同時に、このように考えてくると、「学ぶ」という営みは、授業や読書に限られないことがわかります。スポーツであれ音楽であれ、我を忘れるほど何かに熱中することで、私たちは多くのことを学ぶことができるでしょう。

リベラルアーツの伝統をはぐくんできた立教大学は、「学び」のための多様な機会を作り出してきました。立教大学で真剣に学ぶことで、皆さんはこれからの人生を生きていく確かな「自信と誇り」を身につけるに違いありません。

新入生の皆さん。
これからの学生生活を存分に楽しんでください。
改めてお祝いを申し上げます。

入学おめでとうございます。
「自由の学府」へようこそ。

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総長紹介 | 立教大学



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2014年度同志社大学卒業式祝辞(2015年3月20日

同志社総長 大谷 實 

 一言、お祝いの挨拶を申し上げます。

 皆さん、同志社大学のご卒業、また、大学院のご終了、誠におめでとうございます。学校法人同志社を代表して、心からお祝いを申し上げます。また、ご両親をはじめ、ご家族の皆様、本日は、誠におめでとうございます。心からお喜び申し上げます。

 さて、卒業生の皆さんのほとんどは、これから社会に出て活躍されるはずですが、私は、今日の我が国の社会や個人の考え方の基本、あるいは価値観は、個人主義に帰着すると考えています。個人主義は、最近では「個人の尊重」とか「個人の尊厳」と呼ばれていますが、その意味は何かと申しますと、要するに、国や社会で最も尊重すべきものは、「一人ひとりの個人」であり、国や社会は、何にも勝って、個人の自由な考え方や生き方を大切に扱い、尊重しなければならないという原則であります。個人主義は、利己主義に反対しますし、全体主義とも反対します。

 同志社創立者新島は、今から130年前の1885年、同志社創立10周年記念式典の式辞のなかで、「諸君よ、人一人は大切なり」と申しましたが、この言葉こそ、個人主義を最も端的に明らかにしたものと考えられます。

 この個人主義について、日本の憲法は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、国政の上で最大の尊重を必要とする」と定めています。遅ればせながら、68年前の1947年5月3日に公布された日本国憲法で、個人主義を高らかに宣言したのです。

 あの悲惨な太平洋戦争の原因の一つであった、全体主義あるいは天皇中心主義といった国や社会のあり方について、深刻に反省し、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」て、全体主義天皇中心主義の国や社会のあり方を180度転換して、「すべて国民は、個人として尊重される」としたのです。憲法13条は、まさに、日本国憲法の根幹を示すものとして規定されたのでした。

 ところで、諸君も十分判っていると思いますが、安倍首相の憲法改正の意欲は並々ならぬものがありまして、早晩、改正の動きが具体的になってくるものと予想されますが、そのために、自由民主党自民党憲法草案なるものをまとめて公表するに至りました。その中で、「個人の尊重」という文言は改められて、「人の尊重」となっています。起草委員会の説明ですと、従来の「個人の尊重」という規定は、「個人主義を助長してきた嫌いがあるので改める」というものであります。今日の価値の根源となっている個人主義を、柔らかい形ではありますが、改めようとしているのです。このことは、これまで明確に否定されてきた全体主義への転換を目指していると言ってよいかと思います。

 先にも申した通り、日本国憲法は、個人主義を正面から認め、人間社会におけるあらゆる価値の根源は、国や社会ではなく、一人一人の個人にあり、国や社会は、何よりも、一人一人の個人を大切にする、あるいは尊重する、といった原理であると考えています。

 自民党草案の他の規定を見ましても、個人よりも社会や秩序優先の考えかたがはっきりと表れており、にわかに賛成できませんが、私は、個人主義こそ民主主義、人権主義、平和主義を支える原点であると考えています。

 卒業生の皆さんは、遅かれ早かれ憲法改正問題に直面することと存じますが、そのときには、本日の卒業式において、敢えて申し上げた個人主義を思い起こしていただきたいと思います。そして、熟慮に熟慮を重ねて、最終的に判断して頂きたいと思うのであります。

 結びに当たりまして、卒業生、終了者の皆さんのご健康とご多幸をお祈りし、併せて、一国の良心としてご大活躍されますことを期待し、また、お祈りして祝辞とします。

 本日は、誠におめでとうございます。

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メッセージ|学校法人同志社


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