覚え書:「<メディアと政治>「記憶」としての新聞 戦後70年、自ら検証を=京都大教授・佐藤卓己」、『毎日新聞』2015年04月09日(木)付。

Resize1998

        • -

<メディアと政治>「記憶」としての新聞 戦後70年、自ら検証を=京都大教授・佐藤卓己
2015年04月09日

(写真キャプション)台湾沖航空戦の「戦果」を報じる1944年10月20日本紙
 
 東日本大震災から4年が経過した。あちらこちらで「災後」記憶の風化という言説を見聞きする。なるほど今年も3・11前後の新聞紙面に震災関連の記事はあった。だが、「戦後70年」のためか3・10東京大空襲関連の記事の方に目をひかれた。先の大戦中、東京は何度も空襲を受けているが、特に1945年3月10日のじゅうたん爆撃はすさまじく、死者10万人以上、罹災者(りさいしゃ)は100万人に達した。東日本大震災での死者・行方不明者も関連死者を含めれば2万人を超えているが、この「記憶」報道で戦争被害の比較を絶する甚大さを読み取った戦無派世代も多かったはずだ。

 ニュースペーパー(新聞紙)は何よりニュース(新聞)を伝えるメディアである。厳密に言えば、「戦後70年」企画のニュースに鮮度は乏しい。それでも、こうした「記憶」報道は新聞紙に必要不可欠だ。もしも「いま・ここ」に人々の関心を集約するインターネットだけの情報環境であったなら、私たちが「3・11」に立ち戻って思考する契機はいまよりも格段に少なくなっていたはずだ。新聞は「世界史の秒針」として速報性を追求してきたが、いまでは「日刊の年代記」の記録性でその存在意義を高めている。

 それゆえ、新聞報道は「それが本来いかにあったか」(ランケ)を追究する歴史学の営みに接近してきた。歴史学とは過去の歴史記述を検証し更新する営みであり、そうした批判的な保守点検サービスを欠いた歴史をここではあえて「神話」と呼ぶとしよう。

 ◇信頼性の低下?

 「記憶メディア」化は新聞の誤報問題がクローズアップされる一因でもあるだろう。確かに、歴史家の目で見れば、過去の記事への検証が不十分な新聞には「神話」があふれている。それが露呈した昨年の朝日新聞誤報」問題は、新聞一般の信頼性を大きく揺さぶったとされている。今年1月、同社が「信頼回復と再生のため」の計画を発表したことは周知の通りだが、毎日新聞労組もシンポジウム「信頼される新聞とは−朝日『誤報』問題に学ぶ」を開催している。この事件が新聞の「信頼」を低下させたとの認識は業界で共有されているらしい。

 しかし、私はメディア史家として新聞に対する信頼性の低下という状況認識に、まず疑問を抱いている。新聞の購読部数は確かに減少しているが、それは信頼性が低下したためではない。実際、第7回メディアに関する全国世論調査(2014年・新聞通信調査会)を見れば、新聞はいまも高い信頼度を保つメディアである。もちろん同調査でも「この1年間で新聞の信頼感が“低くなった”」が5・6%から10・2%に増加し、最多の理由は「誤報」28・7%である。しかし、それは読者の関心が「いま・ここ」にあって、過去の新聞と比較することを忘れているからにほかならない。

 朝日新聞記者・内海丁三(ていぞう)が「新聞の“嘘(うそ)”」(銀行問題研究会、32年)を書いた戦前に比べれば、今日の新聞で捏造(ねつぞう)記事はそれが「事件」になるほどに珍しいと言えるだろう。さらに「大本営発表」を裏付けなく掲載した戦時中の新聞紙面を見ればよい。たとえば、44年10月の「台湾沖航空戦」記事は極端だが典型的だろう。「轟(ごう)撃(げき)沈破實(じつ)に五七隻」「敵機動部隊の過半を壊滅」と赫々(かっかく)たる大戦果を報じたが、実際は航空機300機以上を失った日本軍に対して、アメリカ艦隊の損害は空母1隻の小破、巡洋艦2隻の大破と軽微だった。戦時下の新聞報道を批判的に観察していた評論家・清沢洌(きよし)の「暗黒日記」などを読めば、こうした新聞を「捷報(しょうほう)に飢えている」国民がむさぼり読んだとしても、人々がそれを信用していなかったことは明らかである。

 戦後も同様である。毎日新聞論説委員から東京大学新聞研究所教授に転じた城戸又一(またいち)は「新聞に誤報はつきものである」と「誤報−現代新聞の断層」(日本評論新社、57年)を書き起こしている。新聞記事の正確さが読者の間で深刻に論じられるようになったのは、そう古いことではない。いまでも「新聞辞令」という言葉は政官界で使われている。それは新聞が発令前に臆測で報じ、うわさだけで終わる人事である。この場合、新聞は「信用できないもの」の代名詞である。

 ◇「反権力」と「半権力」

 新聞を「信用すべきもの」と見なす認識はいつ確立したのだろうか。それは総力戦体制期、すなわち「戦中=占領」期の産物である。国民を主体的に「戦争協力」や「民主化」に参加=動員させる必要があった時代である。実際、「嘘をつく新聞」と「真実を伝える新聞」で戦前と戦後を区別する俗論はいまも根強い。その戦後「神話」を考える上では、70年前の45年12月8日の新聞紙面を読み直す必要があるだろう。

 その4年前に真珠湾攻撃が行われた12月8日、各紙は連合国軍総司令部(GHQ)に強要され、いっせいに「太平洋戦争史」の連載を始めた。連載中の12月15日、GHQは「大東亜戦争」という言葉の公的な使用を禁止し、新聞記事は以後すべて「太平洋戦争」に置き換えられた。このアメリカ公認戦争史の特徴は、8日の記事冒頭の「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に遑(いとま)がない」に集約されている。それは「真実を隠蔽(いんぺい)した軍国主義者」と「大本営発表にだまされた国民」が対峙(たいじ)するパラダイムであり、今日もなお「先の戦争」を理解する国民的神話となっている。

 GHQは、日本国民の多くがある段階から大本営発表を信用してはいなかったことを十分に理解した上で、あえて公認戦史で「だまされた国民」というフィクションを採用した。もちろん少数の軍国主義者を加害者に、多数の国民を被害者に色分けして相互に反目させるためである。言うまでもなく、「植民地支配」の鉄則は分割統治である。同様のくさびは、「真実を隠蔽した軍国主義者」と「弾圧された新聞」の間にも打ち込まれ、一部幹部の追放を除いて「戦争熱をあおった新聞」の戦争責任は不問とされた。「太平洋戦争史」を連載した全新聞は、先の戦争では軍部のいいなりになり、次の「新たな戦争」ではGHQのいいなりとなったのである。

 「真実を伝える新聞」イメージが国民総動員に必要だったのは、軍部もGHQも同じである。特にGHQは新聞に戦前の支配体制を積極的に弾劾させ、新聞の「反権力」ポーズを印象づけた。しかし、この「反権力」がそのときどきの権力と共犯関係を結ぶ「半権力」であったことは何人も否定できない。

 新聞がこうした「反=半権力」にとどまる以上、「新聞に誤報はつきもの」は読者に不可欠な認識でもある。読者の信頼度が高いほど、「誤報」は有害だからである。話半分の週刊誌やウェブと、ほぼ正確だと信頼されている新聞のどちらが「取扱注意」かは自明だろう。同じ理由から「詐話師」吉田清治よりも、その虚言にクレジットを与えた「クオリティーペーパー朝日新聞の責任がはるかに重いわけである。

 それにしても朝日新聞が遅きに失したとはいえ誤報を認めた点は正しく評価しなくてはならない。今回のように誤報を認めたことがほとんど評価されず、誤報の責任のみが執拗(しつよう)に追及されれば、結果として新聞社の隠蔽体質が強化されることも懸念される。新聞は政府の特定秘密保護法を厳しく批判するが、「公器」をうたう新聞が自らの情報開示に積極的だとは思えないからである。新聞にとって「戦後70年」が自らの「神話」に向き合う機会となることを期待したい。
    −−「<メディアと政治>「記憶」としての新聞 戦後70年、自ら検証を=京都大教授・佐藤卓己」、『毎日新聞』2015年04月09日(木)付。

        • -


http://mainichi.jp/journalism/listening/news/20150409org00m070006000c.html


Resize2000


Resize1977