日記:「なぜ人を殺してはいけないんですか?」と「なぜあなたを殺してはいけないんですか?」という地平の違いから見えてくるもの

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力をもらうということ
 たこもまたそういう盛りに、「めいわくかけて ありがとう。」という言葉を残したのだった。「めいわくかけて すみません。」ではなく「ありがとう」。これはそうした寂しい光景のなかでこそ、ぼそりつぶやかれる言葉なのだろう。
 めいわくかけてありがとう−−この言葉は、だれかに向けてじかに発せられる言葉ではありえない。それこそ草葉の陰で、だれかの後ろ姿に手を合わせるかたちでかろうじて、ぶつぶつとつぶやける言葉だ。
 唐突なようだが、ここでどうしても言及しておきたいのが、このたこの言葉とは正反対の質の言葉だ。この言葉についてはいちど書いたことがあるけれど、たこの言葉の意味をきちんと受けとるためにも、もういちど引いておきたい。
 それは、三年ほど前にひとりの若者がテレビ番組のなかで、「識者」たちに向けた言葉、そう、あの「なぜ人を殺してはいけないんですか?」と問うたあの言葉である。だれかに向けて発せられているように見えてじつはだれにも差し向けられていないその言葉こそ、たこの「めいわくかけて ありがとう。」とは反対にほんとうはだれにかに向けてじかに発せられるべきものであった。
 「なぜあなたを殺してはいけないんですか?」という問いに答えはない。相手は絶句するか、逆に殴打し返すだろう。じかに殺すときはだれかを殺すのであって、人を殺すことである。いのちが殺傷されるときの恐怖は理屈以前のものだ。「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という問いは、殺すという行為の対象の顔が見えないときには受けつけない。殺そうとしたことも、殺されたこともないひとたちが、こういう問いをやりとりする。
 それより、これまでひとはなぜ、他人を殺しうるのに、ときにころしたいとすらおもうのに、殺してこなかったのかと考えるべきではないのか。あるいは、じぶんがいつか死ぬがわかっているのに、ひとはどうして生きていけるのか、を。
 わたしたちはじぶんひとりでは生きていけない。が、しかし、わたしたちが他人になにかをしてもらうときには条件がつく。もしこれこれをしたらあれをしてあげる、というふうに。だからわたしたちは何をするにしても、いくら大切にされても、どこか不安を抱え込む。そこでひとは、じぶんがいまのじぶんのままでそのまま受けとめてほしい、そのまま肯定してほしいと切に願う。そのとき、そういう反応を得られなくても、それでも死なないでいられるのは、あるいはひとをかろうじて信頼できるのは、じぶんが生まれたとき、たとえ親に棄てられても、それでも生きてこられたのは、生まれたときにわたしがここにいるというそれだけの理由で、だれかになんの条件もつけずに世話をされたという核心をどこかでもっているからだ。それがあるかぎりひとは死なないでいられる、殺さずにすむ……。
 このことを大学の授業で話したときのひとりの聴講生の反発については、そしてそのあとふれることになった田口ランディさんの友人の発言については、「オンリーワン」の章で書いた。あらためて引くと、ランディさんの友人はこう言っていた。
 「うちなあ、母親になって思ったんよ。よくもまあ、みんな子供を殺さずにやっているなあって。だって、あんた本当に二四時間介護やで。それでもさあ、殺される子供なんてめったにいないわけよ。だんだかんだ言いながら、大人になる。すごいことだよね。奇跡だよ奇跡」。その理由を彼女はこう説明したのだった。赤ちゃんはぎゃあぎゃあ泣いて、お乳ほしがって、うぱうぱ飲んで、寝て、うんこして、命綱のお母さんの顔を懸命に覚えて、とにかく必死で生きようとしている。そぼ生きようとする力に大人は呆然とさせられる。それを見せつけられたとき、大人はもう赤ちゃんの奴隷になって育てている。だから、どれくらい生きたがって泣き叫んだか、掌に乗るくらいの大きさなのにただ生きるためだけにこんなにも必死だったこと、そういうことがどれほど「世界を明るくしたか」を、あとで子どもにちゃんと伝えておくんだ、と。
 この言葉にふれてはっと気がついたのは、ケアを、「支える」という視点からだけではなく、「力をもらう」という視点からも考える必要があるということだ。
    −−鷲田清一『〈弱さ〉のちから ホスピタブルな光景』講談社学術文庫、2014年、218−221頁。

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