覚え書:「私の出発点:三木卓さん『砲撃のあとで』 戦争の実体験そのまま」、『毎日新聞』2015年10月08日(木)付夕刊。

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私の出発点:三木卓さん『砲撃のあとで』 戦争の実体験そのまま
毎日新聞 2015年10月08日 東京夕刊

 少年は壁にはりついたまま、それを幾度も眺めていた。あの砲弾はどこに落下するのだろう? やっぱり市街地なのだろうか? それとも、敵の塹壕(ざんごう)なのだろうか? いずれにせよ、一発の砲弾が消えていくたびに、必ず人は死んでいるのにちがいない。もちろん、おれの知ったことじゃない。おれはこどもなんだもの。(『砲撃のあとで』集英社文庫より)

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 「戦争が終わった後の世界はこんなもんだっていうことを絶対に書かねばと思っていました」。第二次世界大戦に敗れた後、日本の傀儡(かいらい)国家だった満州(現・中国東北部)から引き揚げる道行きの不条理を、少年の強い目で見つめる。当時、作家は11−12歳。帰国後の静岡県立静岡高校時代、さらに早稲田大学時代にも筆を起こしたが、満足できなかった。

 戦後は政治の季節だった。「ソ連は天国」との風潮に対抗する材料として、反共勢力に利用されるかもしれないなどと考えた。普遍的に読んでもらえる文体を模索し続けた結果、固有名詞を排除して書いたのが表題作。36歳になっていた。全編通して主人公は<少年>、長春(当時は新京)は<この都市>、関東軍は<国境防衛軍>、そしてソ連は<国境の向う側にある国>だ。著名な商品である「仁丹」も<ドイツ軍人風の大げさな肩章とモールをつけた髭(ひげ)の老軍人を登録商標にしている口中清涼剤>と表現する徹底ぶり。さすがに「丸谷才一さんに笑われた」という。

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 14編のうち「曠野(こうや)」は、既に父を亡くした少年が、4歳上の兄と母、祖父母と共に貨車に詰め込まれて帰国を目指す途次、平原のただ中で理由不明の長時間停車をしている間の出来事を描く。少年は、少女の下痢便と血が厚く付着した布を目撃する。また、軍服を着た若い男が少年の目の前で下痢便を垂れ流す。兄と2人で汚物まみれの男を担架に乗せて運びながら、少年は兄から女性の生理について教わる。男は深刻な伝染病にかかっているらしい。

 一方で、作品は詩情にもあふれている。<白い雲は輝きながら足早に流れ、太陽が大豆を向日葵(ひまわり)を粟(あわ)を高粱(こうりゃん)をもえあがらせる>。都市と文明が覆い隠していた人間の臭気と、大空と大平原が織り成す豊かさと。それらが地続きであることに読者は戸惑ってしまう。残酷ですらある。「等価なんですよ。まったく同じ。線路のそばには葬式をあげられないから捨てられた死体がドクロになっている。そういう一つの世界なんだ」

 少年は悲しまない。そもそも陰鬱になる余裕がない。人間をボロボロにさせてゆくものの正体が何かは分からず、反射的に考え動く。むつみ合う大人の男女を見て<人間の世界の奇怪さに驚愕(きょうがく)し><普段自分が見ている大人たちの姿は、とりつくろわれた他人行儀の偽り>だと思う。「世界がゆがんで見えている。絶対性のない目なんです」

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 詩から出発し、小説の船出となった本書は、引き揚げてきたゆえの自己の“地盤”のなさを確認してもいる。「僕は村祭りが苦手です。命をかけるほど危険なのがありますね。僕はずっとソ連兵や中国兵から怖い目に遭わされてきたから、なぜわざわざ……との違和感がある。桜も富士山も確かにいいとは思いますが、頭から決めつけられると『もっと自由をくれ』と言いたくなります」。あらゆる「前提」を問い続けてきた。

 本書には、ここで泣いてとばかりに畳みかけるくだりも、流し読みできる「だれ場」もない。すべてにピントが合っている。「そういう意味じゃ読みにくい小説なんですよ。臭いし汚いし、読者にとってキツいと思います」。しかし、すべては作家の実体験だ。どんな美辞麗句と大義名分を並べようとも、戦争をすればこうなる。こんな目に遭うのは戦争を始める為政者ではなく、今はテレビや新聞で国会を眺めている市民なのだ。

 「軽いセンチメンタリズムで動き過ぎていると思います。『なぜ?』と問い続けなければ。それは孤独への道でもありますが」。本書は今こそ新しい。【鶴谷真】=毎月1回掲載します

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 《作品紹介》

 支配者として暮らす植民地で敗戦を迎え、国家がなくなり、守ってくれるはずの軍隊も早々に逃げた。少年は、飢えや病にさらされる人々の中でもがく。無力ゆえに生への渇望にあふれる。表題作で描かれる市街戦は、ソ連侵攻後の国共内戦時のもの。本書は1973年刊行の連作小説集。71年に文芸誌『すばる』に発表した表題作をはじめ、73年に芥川賞を受賞した「鶸(ひわ)」を含む14編で構成する。三木さんは児童文学作品でも知られる。
    −−「私の出発点:三木卓さん『砲撃のあとで』 戦争の実体験そのまま」、『毎日新聞』2015年10月08日(木)付夕刊。

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