日記:憲法論が必要になってくるときは、合理的な議論が困難になっているときだ

Resize4295

        • -

 簡単に言えば、憲法を学ぶということは、権力者が犯しがちな失敗を学ぶということなのだ。そこには歴史に基づくリアリズムがある。憲法を無視するということは、人類の叡智を無視するということだ。憲法を無視した政策論は、時流に乗った軽率な議論である可能性を疑わねばならないだろう。
 さらに、「現在」の観点に限定して考えたとしても、憲法とは、主権者である国民の意思だ。たとえ70年前に作られた憲法であろうと、その原案作成に外国人が大きく関わっていようと、その憲法を変えずに使い続けているのは、今生きている日本人だ。そこには、この憲法の下で国家を運営しよう、変える必要はない、という国民の意思がある。
 憲法学者は「憲法に照らして、その政策を実現するのは無理です」と言うことがある。それに不満があるなら、国民に対して憲法改正を提案するのがスジだろう。憲法改正の手続きが厳格であることは理由にならない。なぜなら、国会の全会一致で通る法なんてたくさんあるわけで、合理的な法案なら、国会だって国民だって、賛成するはずだからだ。憲法改正が難しいからといって、憲法を無視して政策を通そうとするのは、その政策が国民に支持されていないことを自ら告白するようなものだ。
 ちなみに、多くの憲法学者に比べても、私は政策論を語らず、憲法解釈論にこだわる傾向が強いかもしれない。その態度をかたくな過ぎると感じる人もいるだろう。
 しかし、政策論というのは、相手が合理的な思考の持ち主である場合にしか役に立たないことに注意してほしい。
 合理的な人同士であれば、現状認識や価値判断を相互に示していけば、どこが対立点か明確になり、落としどころも見えてくる。仮に双方の合意にまでは至らないにしても、多数決によってもたらされた結論に、それなりに納得できる。
 しかし、権力の座に着く人が合理的な人ばかりだとは限らない。だいたい、権力者がみな合理的なのであれば、権力者は歴史に学ぶはずだから、憲法の条文などなくても基本的にはその枠内に収まるだろう。一般の国民から見て不合理なことを無理やり実現しようとする人がいるからこそ、憲法というシステムが作られたのだ。
 不合理な相手に、「政策的におかしいからやめなさい」といくら言っても聞く耳を持つはずがない。権力者というのは、権力を濫用するものなのだ。憲法論が必要になってくるときは、合理的な議論が困難になっているときだ。だからこそ、憲法という形式的な枠組みによって、権力者の行動を制限することに意味がある。
 形式論が形式論であるがゆえに持つ強さにも、目を向けてほしいと思う。形式論を通じて、合理的な議論のテーブルに着かせることが、憲法の大事な役割の一つだ。
    −−木村草太(共同討議・國分功一郎)『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』晶文社、2015年、272−274頁。

        • -


Resize4111_2